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カラマーゾフの兄弟


i文庫というiPhoneで読める青空文庫から『カラマーゾフの兄弟』を読んでいます。
ドストエフスキーが残した最高傑作とされる本ですが、20代はじめの頃に手にしたときは、一体なぜこれが普遍の名著と呼ばれるか全く分からず、またたくまに挫折しました。
しかし今は、まだほんの300ページほどしか進んでいないにもかかわらず、人間の真理(らしきもの)を説いたくだりが満載で、唸りながら読んでいます。
まだ序盤部分ですが、兄弟と父親が出逢ったゾシマ長老の言葉で、心に残った部分をメモしておこうと思います。

肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことじゃ。みずからを欺き、みずからの偽りに耳を傾ける者は、ついには自分の中にも他人の中にも、真実を見分けることができぬようになる。したがって、みずからを侮り、他人をないがしろにするに至るのじゃ。何びとをも尊敬せぬとなると、愛することも忘れてしまう。愛がなければ、自然と気を紛らすために、みだらな情欲に溺れて、畜生にも等しい乱交を犯すようなことにもなりますのじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する、絶え間のない偽りから起こることですぞ。

みずから欺く者は何よりも先にすぐ腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいものじゃ。な、そうではありませんかな?そういう人はちゃんと承知しておりますのじゃ、---誰も自分をはずかしめたのではなく、自分で侮辱を思いついて、それに潤色を施すために嘘をついたのだ。一幅の絵に仕上げるために、自分で誇張して、わずかな他人のことばにたてついて、針ほどのことを棒のように言いふらしたのだ。---それをちゃんと承知しておるくせに、われから先に腹を立てる。それもいい気持になって、なんとも言えぬ満足を感じるまでに腹を立てるのじゃ。こうして本当の仇敵のような心持になってしまうのじゃ...。

愚痴というものは、ひときわ心を刺激し、掻きむしることによって、ようやく悲しみを紛らすばかりである。こうした悲しみは感謝を望まないで、あきらめきれぬ苦悩を餌食にするものである。愚痴とは、ひたぶるに傷口を食い裂いていたいという要求にほかならない。

その人が言うには『わたしは人類を愛しているけれど、自分でもあさましいと思いながら、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少なくなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なほどの想念に達して、もしどうかして急に必要になったら、人類のためにほんとに十字架を背負いかねないほどの意気ごみなのだが、そのくせ、誰かと一つ部屋に二日といっしょに暮らすことができない。それは経験でわかっておる。相手がちょっとでも自分のそばへ近寄って来ると、すぐにその個性がこちらの自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者をすら憎みだしてしまうことができる。』

何より大切なのは偽りを避けることじゃ、あらゆる偽り、ことに自分自身に対する偽りを避けなければなりませぬ。自分の偽りを観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを吟味なさるのじゃ。それから、他人に対しても、自分に対しても、あまり潔癖すぎるのもよくありませんぞ。あなたの心の中にあってきたなく思われるものも、あなたがそれに気づいたという一事ですでに清められておりますのじゃ。恐怖もやはり同じように避けなければなりませんぞ---もっとも、恐怖はすべて偽りの結果にほかならぬのじゃが。また愛の到達についても、けっして自分の狭量を恐れなさるな。そればかりか、その際に犯した自分の良からぬ行ないも、あまり恐れなさることはありませんじゃ。

なにしろ実行的な愛は空想的な愛に比べると、なかなか困難な、そして恐ろしいものじゃからな。空想的な愛は急速な功績を渇望し、人に見られることを望むものじゃ。実際、極端なのは、まるで舞台の上かなんぞのように、一刻も早くそれが成就して、人に見て感心してもらいたいが山々で、それがためには命を棒に振っても惜しくない、というほどになるのじゃ。ところが、実行の愛となると、これはとりもなおさず労働と忍耐じゃ。またある人にとっては、一つの立派な学問かもしれぬ。しかし前もって言っておきますがの、どのように努力をしても目的に達することができぬばかりか、かえってそれから遠のいて行くような気がして、慄然とする時、そういう時、あなたは忽然として目的に到達せられるのじゃ。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)