鎌田教授が序文を書いた新刊書籍がデスクに置かれていました。ヘレン・ケラーが1927年に執筆した著書『My Religion』の翻訳本『私の宗教: ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る 《決定版》』です。
ヘレン・ケラーといえば、目が見えず耳が聞けず言葉が話せず、の三重苦を負いながらも類いまれな才智と努力で社会活動家になり、多くの影響を与えた人として知られています。私も子どもの頃に伝記を読んで感動しました。
信仰心の厚かったヘレン・ケラーは、スウェーデンの神秘思想家であるスウェーデンボルグを信奉していました。結晶学などで業績を残した科学者のスウェーデンボルグは、生涯後半で神秘体験をし霊性世界を見たとして、数多くの霊性に関する著書を残しています。その思想が極端すぎて危険だとして批判も多かったようですが、既に自己の見えない眼で様々な事象を見つめていたヘレン・ケラーにとっては、キリスト教と聖書を純化し、降りてきた精霊と対話し、生きる真理を明確に言葉に残したスウェーデンボルグが自身のメンターとなったことは自然だったのかもしれません。
書籍のなかで特に印象に残ったのは、スウェーデンボルグの教えをヘレン・ケラーが綴った後半の部分にある「歓びこそが生命」という章でした。「幸福というのは小さな歓びの積み重ね」というシンプルなテーマですが、社会で働く私たちがどうすれば日常で幸せを感じることができるか、ヒントをくれる内容となっていました。
精神的な能力や肉体的な欲求には、みなそれぞれの歓びというものがあります。それらは回復と強化の手段なのです。肉体的なものであれ精神的なものであれ人間が本来もっている能力はいずれも、その能力に見合った満足のいく仕事を選んで活用すべきです。とかく人は、霊的な歓びを得るためには自然的な歓びを捨てなければならないと考えがちですが、その必要はありません。むしろ逆に、内的な生を高めていくにしたがって、自然的な歓びをも、よりじっくりと楽しむようになるのです。親しい友人から贈られた一房のブドウはなんとすばらしいことでしょう。美と色彩と甘い香りに包まれ、愛と想像力と詩情に匂い立っています!
自分は快楽を薦めている訳ではない、とあらかじめ注釈したうえで、ヘレン・ケラーは、自然的、物質的な歓びを感じてこそ、生きる力やモチベーションが沸き、他人への愛や奉仕に力を注げるようになるのだ、としています。ただストイックに善行をおこなおうと思っても無理がありますよね。日々のささいな出来事をも歓べる気持ちがあれば、より高みへ自分を持っていくことができる、ということなのでしょう。
歓びというものは、成長し、自己を陶冶(とうや)し、気高い素質を獲得するうえで不可欠のものである、という感覚が思慮深い人たちのあいだに育ちつつあります。知ることの歓び以外に、子どもたちを勉強へ誘いこむものがあるでしょうか?味覚の歓びがあってこそ、身体は食べものを咀嚼できるのではないでしょうか?多少とも考える心があれば、自分が歓べる考えを選んで、そのほかの考えは顧みないのではないでしょうか?(略)もし、新しい真理を理解することや、人々に新しい奉仕を提供することに歓びを感じるのでなければ、なぜ科学者はあれほどまでに精神的苦痛やうんざりする研究に耐えていられるのでしょうか?
日本人的な精神ではなかなか難しいことかもしれませんが、やはり「楽しんでなんぼ」ということです。押さえつけられて生きてきた人間には、なぜ自分がこの仕事に就いているのか、なぜ今これをやらなければならないのか、徐々に分からなくなってしまい、歓びどころか被害者意識すら生じさせてしまいがちです。自分の人生は、自分が幸せになるためにあるものであって、人や社会の犠牲になるものではない。だとしたら、常に歓びを感じることを意識し、その歓びを行動原理にすることはとても大切なことなのだと思います。
たとえ一日に五分であっても、きれいな花や雲や星を探すとか、詩の一節を暗唱するとか、仕事に飽きた人の心を盛りあげるとか、何か特別な歓びのためにだれもが時間をさくべきであることは疑いを容れません。美や歓びを感じて微笑を交わすことをいつもあとまわしにし、うんざりするような仕事や人間関係にしがみついているだけなら、自分をへとへとに疲れさせてしまうような勤勉さがいったいなんの役に立つというのでしょうか?(略)地上の美を愛してこそ、日の出や星たちの輝きを切望する資格があるのです。
感性や好奇心を大切にして、何かを美しいと思う気持ちや、誰かのために何かをする歓びを忘れずに生きられたら、きっと毎日は愉しくなる。そんなシンプルなことをヘレン・ケラーはスウェーデンボルグの難解な(といわれる)教えを紐解き、私たちに教えてくれています。
興味のある方は、ぜひ実際に本を手にとってお読みください。