友人がたくさん出来ている

雨、雨、雨の京都。

夕方にはあがるようだ。今日の夕方は鴨川の納涼床に誘われているので、できればあがってほしい。

最近、よくお誘いがかかる。飲み会、ドライブ、地方(関東含む)からの京都訪問。

とりあえず好きな人なら受けるようにしている。

基本的には私は自分からあまり人を誘わない。放っておいても誘われるからだ。

こう書くとめちゃくちゃ受け身なのだが、実際にそうだ。

蜜蜂と花の関係なのかもしれない。ということで自分は花ということにしておく。

以前はいろんな生き物にたかられていた(たかられていたというと言い方が悪いが)。

自分が何者か自覚していなかったから、なんでも受け入れていたのだ。

生物は自覚がなくても自分が何者か本能的に分かっており、というか本能でしか生きていないから蜜蜂は特定の花から蜜を吸い、燕は時季になれば巣を作り雛を育て巣立させる。

人間はどうだろう。意識や知性があって、そういうものによって社会が成立しているもんだから、生きていくにも本能だけで活動できない。

親や先生や会社といった周囲の環境から押し付けられる価値観というもので自分の行動規範が作られてしまって、悩みや不幸に陥ってしまう。

意識や知性の前に、本能や感知力、感情があって、そっちをなるべく優先したほうがいい。

ということで、最近は「なんとなく付き合いたい」「この人は友だちになれる」人とだけ付き合っている。

仕事上でも同じだ。目標を共にすることができ、短期的か長期的かは置いておいて、人類にとって良きものごとに向かおうとしている人となるたけ付き合おうと思っている。

こっちは意識や知性レベルの判断が働いているのに書いていて気づいた。しかしベースに自分が「心地よいか」の判断軸がある。

半世紀近くも、自己認識の薄い花だったので苦労してきたけれど、今はいい感じで、私のところに飛んできてくれる蜜蜂とともに共生している。

もう少ししたら、楽しいお花畑が作れるかもしれない。

 

過去に書いたブログもこれに通じることが書かれていたので共有します。

「幸福というのは小さな歓びの積み重ね」〜 ヘレン・ケラー『私の宗教』より 〜 - tapestry