片思いとか、アイドルやスターへの憧れとか、そういうものに対して全く理解不能だった。
「たんなる一方通行で自分の思いが伝わらない、受け入れられないなんて、ありえない」。
愛するなら愛されなくては。焦がれるなら焦がれられてなんぼ、と思っていた。
ギブアンドテイク。
その昔、柔道の金メダリストで人気を馳せた山下選手が結婚したとき、奥さんになる人が「私だけが山下さんを知っていて山下さんが私を知らないなんて不公平だ」という旨のラブレターを手渡して成就した、というエピソードが有名になった。
そうだそうだ、好きなら好きになってもらう権利を獲得すべきだ、と納得していた。
知り合いで藤井フミヤに夢中な女性がいて、(当時は)寝てもさめても「フミヤラブ」だった。
永遠にフミヤに自分の存在を知られなくても、好きは好き、という彼女の熱狂に対して、全く共感できなかった。
でも最近は、どんな形であれ、人を好きになるというだけで得られる幸福感もあるのではないかな、と思い始めている。
好きになれる相手がいる、愛せる対象がある。
誰かを好きになれる自分がいる、愛せる自分がいる。
どうやらそれだけでも、とても素敵なことのようだ。
人は、欲しいものを全て手に入れられるわけではない。
努力すれば、うまいやり方を考えれば、手に入ると思っているとすれば、とても傲慢な考えだ。
また、自分にメリットを与えてくれないものには愛情をかけない、というのは利己的だ。
この人はとても素敵だ。出会えて良かった。
こんな人がこの世にいてくれて、嬉しい。
こうして同じ時代に生きていること、存在を感じられることに感謝したい。
そう思うことで、得られる幸せもあるのではないだろうか。
それには今の自分がひとりであっても、満足できる自分であることが前提なのではないか。
かたくるしくいえば、自己が確立している、ということだろう。
他人から、周囲から、何かを得なければ満足できない自分であれば、自分ひとりの精神行為に満足できない。だから「与えられてなんぼ」と思ってしまう。
他人に依存しないからこそ、他人を愛せる、ということ。
他人を好ましいと思える自分が好ましいから、それだけでも幸せを感じられるということ。
それに気付いただけでも、今の私は幸せ。
もちろん、相思相愛になることが、最も理想的ではあるけれど。
手に入らないからこそ、輝くものもある。