雨、雨、雨の日々が続いている。夜明けに激しい雨音を聞くたびに、各地で被害にあった人たちのことを思い心が痛む。岐阜に移住した友だちも、いっとき建物の2階に自主避難したそうだ。さぞや不安な思いをしたことだろう。京都では、鴨川が下流の方で土手を歩くことが困難になるぐらい水かさが増えていた。
そんな中でも、いろんな人と出会ったり交流したり、毎日せわしなく過ごしている。忙しいという字は、心を亡くすと書くから忙しいんだ、ということが言われている。それを知った時から私は「忙しい」という言葉を人に言わないように自分に命じている。実際、やるべきことが増えてプレッシャーを感じる時は、「やりたくなければやらなくていい。自分の心と身体がやりたいと言っているならやればいい」と自分に言ってみる。そうやって自分を試すと、結果、やりたいからやる、ということだけが残る。だから心を亡くしてまで動く必要がなくなるので、しんどくない。楽しい。
しかしそうは言っても、やっぱりやるのが億劫なこともある。なんとなく後回しにしたいことや、どうせならやりたくないから人に任せたい作業もある。一方で、何時だろうが疲れていようがやりたくてたまらない、自ずと自分が動いている作業もある。
それって何の違いがあるのかな。
しばらく考えて結論として出たのは、自分の中で「新しい価値を創造している」と感じている時は、放っておいてもやりたくなる仕事であり、「お金を稼ぐためだ」と感じている時は、億劫になる、ということが判明した。
日々、小さな会社ながらも仲間と作った会社の役員として動いていると、やはり収益を意識して動かねばならない。その結果、営業が実って仕事につながり、案件を順当に進める、ということが大事な業務になる。
一方で、営業観点ではなく「いいことだから」関わっている活動もあって、その結果、仕事につながっている案件もある。その場合は自分の中で「これは新たな価値創造につながる仕事だ」と思って動いているので、最終的にお金につながるかどうかはあまり問題ではなかったりする。しかし意外と動いていればお金につながるのが面白いところで、特に会社経営者として相手と関わっていれば、やはり最終的にお仕事として発注してもらえたりする。こう言う、いつ実を結ぶかわからないけど、価値につながるという気持ちの元に活動してタネを巻いてものが最終的に果実になった時、ものすごい喜びを感じるのだ。
しかしながら、考えた。自分がお金のためだから億劫だ、と勝手にレッテルを貼っている仕事だって、社会に何かしらのインパクトを与え、それにより誰かがハッピーになっているのではないだろうか。反社会的な仕事ではないのだから、お金を払ってくれるお客さんがいる仕事である以上、その意味と価値を私の方がきちんととらえて取り組むべきなのだろう。
仕事のより好みはもちろんその人の個性や自分らしさに関連するので、やって当然なのだが、一方で、勝手なバイアスでみすみす仕事の価値を誤解しているケースもあるかもしれない。
こういうことは、常に心がけておきたいものだ。自分の感覚は、常に正しいわけではない。思い込みで色んな機会を損失したり、仕事相手や家族に対して残念な思いをさせることのないようにしたい。
関わっている仕事に対しても、その価値や意味づけをしっかりできれば、それは楽しい活動になるわけだから。同じ認知バイアスでも、ポジティブな方向に働くようにできれば良いな。もちろんそれが行きすぎると危険だし思考停止になるわけなので、常に自分に関わる事象を冷静にジャッジできるようになりたい。