三条〜丸太町で老人から聞いた愛の物語

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 午後3時半にお茶の稽古を終えて、いつものように寺町から四条を折れて京阪の駅へ向かった。降り注ぐ陽光。乾ききった四条大橋。陽の光とアスファルトの白さで街全体がぼんやりと霞んで見える。稽古の緊張感がほどけていくうちに、この暑さのせいで脳内のタガまで緩んでしまったようだ。吸い込まれるように橋のたもとの階段を降りた。容赦なく西日が左頬に当たる鴨川東岸の川べりを歩き始めてしまった。

「お着物、いいですねえ。私の家内がね、着物が好きだったんですよ」

 その老人は、数メートル前を歩いていた。ゆったりと、でもしっかりとした足どりで、水色のポロシャツに白い綿の帽子をかぶり、歩き慣れているのか、背筋は伸びて歩幅も大きめだった。

 老人に追いつき、しばらく並んで歩く恰好になった。するとニコニコしながら話しかけてきた。

「家内はねえ、あなたのように背が高くなかったですけれど、洋服よりも着物が似合ってねえ、喜んでいつも着ていましたよ。もう3年前に死んだんですけどね。55年間連れ添いましたが、150点のすばらしい嫁でした」

「まあ、そうなんですか!55年ご一緒で150点も付けてもらえて、本当に良いご夫婦だったのですね」

 たずねてもいないのに、妻の思い出を話し始めた老人。幸せな語りに、思わず応答した。これを皮切りに、彼の物語が始まった。

 

「家内と私はねえ、長野の善光寺の出身なんですけれども、戦後の大変な時期を終えたあと、就職先で運良く昇進を重ねてね、60人ぐらいも部下ができてね、転勤を繰り返して、最後にたどりついたのが、城陽市だったんですよ。

 私も家内も京都が好きでね。家内としょっちゅう電車に乗って市内まで出てきて、北大路の植物園なんかに通ったもんです。そのときも、この鴨川をずっと歩いてね。家内は、川ぞいを歩いていても、鴨なんかがいるとしゃがみこんで、『鴨さん、こんにちは』なんてしばらく話しかけるんですよ。私が『おまえ、もう行こうよ。鴨には鴨の生活があるんだよ』なんて、なだめすかして連れて行ったりしてね。楽しかったですよ。

 家内はねえ、性格が良くてねえ。おかげで死ぬときもまったく苦しまずにポックリいったんですよ。ある朝、頭がだるくて眠いというから、脳梗塞じゃないかと思って医者に連れていったら、脳梗塞ではないけど心臓がちょっとおかしい、ってもんだからそのまま入院したんですよ。そしたらその翌日には寝てる間に息をひきとったんですよ。最後に話したのが、『私が入院なんて、おかしいわよねえ〜』なんていう冗談だったんですからね、本当にラクな死に方ですよ。

 私ですか?私はねえ、とつぜん家内がいなくなったもんだから、本当にねえ、穴がポッカリあいたようでね。最初の一年は何がなんだか分かりませんでしたね。それで、二年目はね、お酒ばっかり飲んでね。ずっと酒浸りでしたよ。でもね、家内と一緒にやってたウォーキングはなんとか続けてたんですよ。それで、三年目になってね、ようやく家内が好きだった場所に行って、胸ポケットにしまってる家内の写真に向かって『かあちゃん、もう一回来たよ』なんて行って、歩いてるんですよ。

 今日もね、久しぶりに家内が好きだった鴨川を歩こうと思ってね。汗がすごく出るから、写真は胸ポケットに入れてこなかったんですけどもね、そのかわりにね、こうして着物の素敵な方と歩けてね、私は幸せですよ。家内も今ごろ、ニヤニヤして見てるはずですよ。

 55年も夫婦円満だった秘訣ですか?それはねえ、何しろ家内が良かったんですよ。いつもニコニコしてねえ。転勤ばっかだったのに嫌がらずに着いてきてくれてね、おかげで息子二人も元気にニコニコと育ってね。いまや大きい企業でえらいさんになってますよ。下の息子は宝ケ池に立派な家を建ててねえ、大きなBMWにみんなを乗っけて善光寺まで墓参りに連れてってくれるんですよ。

 三ヶ月前にねえ、腰を痛めてしまってね、生まれて初めて入院したんですよ。お医者に『一ヶ月は入院や』と言われたのにね、家内とずっと歩いてたおかげでね、すぐに治って二週間で退院ですよ。今はほら、コルセットはしてますけどね、でもこうして普通に歩けるんですよ。陽が出てきて暑いけどね、やっぱり歩くのはいいですよ。長野にも、犀川とか信濃川とかね、いい川がありますけどね、ほんとに鴨川はいちばんだと思うんですよ。

 今、83歳なんですけどね、え?見えませんか?よく言われますよ。ここまでよくやってこれたのもよく歩いたおかげですかね。仕事もがんばってきましたけどね。色んなところに行って、長野の言葉は標準語に近いって言われますからね、関西では最初は嫌がられましたけどね、誰にでも丁寧な言葉で話していたら、ちゃんと認めてもらえるんですよ。おかげで小さい会社でしたけど、定年までやれましたよ。

 あなたはどこまで行かれるんですか?出町柳!それはすごいですね。私はもう少ししたら日陰で休憩しようかな、と思ってます。だから先に行ってくださいよ。今、どこですかね。丸太町、そう。よくここまで歩きましたね。それにしても今日は、うれしいことがあったなあ。こんな女性と鴨川を歩けて。日記につけときますよ。家内にも報告しますからね。いやもう見てると思いますけどね。本当に良い日だったなあ。

 ああ、それじゃあ、ここで。ありがとう。お元気で。」

 

 名前も知らない、ひとりの老人のライフストーリー。愛する妻と歩んだ人生の回顧録。彼の物語のわずかな一節に、私という着物姿の登場人物が加えられた。ひょっとすると老人は、暑さにやられてしまった私が見た幻影なのかもしれない。夢かうつつか夏の川。