夕方の鴨川西岸は、たくさんの人々が集っていた。ようやく日が落ちかけて、少しだけ涼しくなった風がやわらかに頬をなでる。芝生には外国人のピクニック家族、目のやり場に困る若いカップル、犬を連れた老人、つつましく体の一部を合わせて語り合う男女、浴衣の女の子グループ。誰もがリラックスしていた。西日を受けて光る川面、亀石を跳び移る人、カメラを持つ人、音楽を奏でる若者。どの人も幸せそうで、鴨川デルタは祝祭的空気に満ちあふれていた。
川べりの土手にある噴水で子どもと遊ぶ。裸足になって一緒に遊ぶ。丸い噴水の穴を足で手でふさぎ、わずかに隙間をあけると水が勢いよく飛び出してくる。気付けば息子の全身と私の下半身はびしょぬれになっていた。でも大丈夫。みるみるうちに乾いていくから。夕暮れの風がどんどん心地よくなってきた。
さっき私たちが到着してアイスクリームを食べていたとき、噴水で遊んでいた子どもは一緒にいた若い父親から「足でふさぐな!オレに水がかかるやろ!」と罵倒され、水の周りでウロウロするだけだった。水がかかりたくないなら離れて座ればいいのにな。子どもを平気で叱りつける親を見ると心が痛む。身につまされる。我が身が恥ずかしくなる。そばにいたトッキーも困惑の表情を見せていた。
罵倒親子が去って、開放感にみちあふれた私たちは、びしょぬれになって遊んだ。噴水から流れる小川に葉っぱの舟を浮かべてどれだけ進むか競争したり、アイスクリームの空き容器にクローバーの花と水をたくさん入れてお花アイスをつくったり、裸足でベンチに寝転んで電車ごっこをしたり、ぞんぶんに川を堪能した。
「そろそろ帰ろう」といって自転車に向かうと、いつもは「まだあそぶ!」と抵抗する息子が素直についてきた。もうじゅうぶんに遊んだ、ということなのだろう。「早く」「早く」と口癖になっている日常。心に巣くう”焦り”が子どもを急かし続けていた。今日は違った。どうしてか分からないけれど、何の気負いも焦りもなかった。
私は私の人生を消化してここまできた。なんと成し得たことの少ない人生だったろう、とすでに後半に差し掛かった今を憂いている日々だ。人の顔色をうかがって、空気を読んで、あるいは根拠の無い自信で人をふりまわし、自由の名のもとに身勝手を繰り返し、しかし根底には恐れと不安を抱いて生きてきた。
それでも今、少しずつ私は私であることを受容し、このまま人生を歩むことを良しとし始めている。自分でも変化が分かる。なぜだろう。何となく分かることは、これまでに経験したことは無駄ではなかった、ということだ。どん底にいたときの時間、孤独なランニング、アルコール漬けで苦しんだ夜、人を避け、自分をさげすみ、何にも希望をみいだせなかった朝。そんな独りの時間が今の私に安寧をもたらしている。不思議なものだ。そんな風に今につながろうとは露にも思っていなかった。
澄んだ目で、平らかに、恐れも不安も焦りも抱かず、人生を選びとっていけたら。今からでも間に合うのではないだろうか。
鴨川からの風も、そこここに集う人々も、空に浮かぶ薄綿のような雲も、息子の濡れたシャツも、頭上を舞うトンビも、選挙カーからのだみ声も、全てが祝祭的だった。2013年の7月20日の夕暮れは、良い夕暮れでした。