8月1日で息子、トッキーが4才になりました。
彼を産んだ日も朝からセミがジリジリ鳴く真夏日でしたが、波のように押し寄せる陣痛のせいで冷や汗が出て、暑さなどまったく記憶にない一日でした。
あれから4年。子供に翻弄され、自分の未熟さに打ちのめされ、人と繋がることの大切さに目覚め、たくさんのことを学んだ日々でした。
昨年までは誕生日をよく理解できず、ただ大人から祝ってもらっていただけの息子も今年は特別な日がくることを認識しており、指おり数えて当日を待っていました。
誕生日の朝、母子そろってニコニコと保育園の門をくぐりましたが、そこには泣きじゃくる友人(母親のほう)の姿がありました。
春に卒園した仲間の女の子が急死してしまったとのこと。あまりの出来事に言葉を失いました。
息子とも仲のよかった、やさしい女の子でした。いつも、ぽわんとあたたかい雰囲気を持っていて、我が家に遊びに来てくれたときも、しずかに、でも好奇心いっぱいに子供部屋で仲間と共に過ごしていました。
天使のような、という言葉がとても似合う、そんな清らかな空気を身にまとった女の子でした。
友だちから訃報を聞いたその朝、小さな命がとつぜん奪われた出来事を知った哀しみと、息子がひとつ年を重ねた喜びとが、まさにこのブログのタイトルのtapestry(つづれ織り)のように交差しました。
その後は、ふとしたはずみに涙、仲間と目が合えば涙、メールをやりとりして涙。やるせない思いでいっぱいの2日間でした。今も、心の底に重い石が沈んでいます。
もちろんその間も、息子とのバースデーを喜び、楽しみ、たくさんの大切な人たちから祝福してもらいました。生きている息子の成長を喜ぶ思いと、同じ価値を持つ小さな命がひとつ失われてしまった哀しみ、どちらも強烈で、まったくもって打ちのめされました。
昨夜は告別式でした。こんなに哀しく、愛であふれたお別れの会は初めてでした。彼女がどんなに愛されていたか、小さな命が失われることがどれだけ多くの人に打撃を与えたか、やるせない思いと愛しさにただ涙する私たちでした。
何人かの人が、マイクを通してお別れの言葉を話しましたが、みんな「ありがとう」という言葉を彼女に贈っていました。本当に、ありがとう、という気持ちが自然に出てきました。小さな命は、生きているだけで、私たちにたくさんのものを与えてくれるのです。そして失われたとき、どれだけそれがかけがえのないものだったかを知るのです。
あの子は天使になって、残された私たちは生きていきますが、心のなかでは生き続ける。そのことを、たしかに感じた夜でした。
残されたお母さんのことを思います。彼女のためにできることがあったら、なんでもしようと思っています。きれいごとではなくそう思っています。
人はひとりじゃない。とりわけ、何かあったとき、人ができるのは、言葉や態度や気持ちで寄り添ってあげられる。彼女にはそのことをどうか忘れないでいてほしい。どんなことでもいいから、多くの人を頼ってほしい。
人はどんな出来事からも何かを得ることができる。それが綺麗ごとではなく真実ならば、きっと彼女もいつか今の辛い状況から抜け出せるのだと信じたいです。
非力な私ですが、今は、ただ祈っています。