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人間の成長について思うこと

3才の息子は、まだまだ自分では満足に事をこなせない。
それでもひととおりの生きるための作業ができるようになってきた。
ひとりで歩く。食事をとる。排泄をする。空腹だと言う。痛いと言う。寒いと言う。
道で自動車をさける。熱いものに触れない。怒り狂う母親に近づかない。
この世で生存するための最低限の行為は自分でできるし、危険もさけられるようになった。
あとはブラッシュアップとプラスアルファだ。
人間は、そこからが長い。成人とよばれるまではまだ17年間もある。
20才になったところで、本当に社会的に一人前とみなされるにはまだ時間がかかる。
それが他の生き物との違いだ。だから個体差が大きい。
15才で自立し、お金を稼ぐ子がいる一方で、40才を過ぎても親の庇護のもとで生きる人がいる。
生存能力が備わったあとで、どんな人間になるか。
それには、やはり環境が大きな鍵を握っている。
勉強をよくする親のもとで育つ子は、勉強をよくする子になる(傾向がある)。
知的活動に興味を持たない親のもとで育つ子は、知的活動ができない子になる(傾向がある)。
乱暴な親には乱暴な子、優しい親には優しい子。
どうしても親が形作った環境のなかで、親に影響されて子は育つ。
世の中には成功例のほうが目立つが、そうでないケースのほうが多いのではないか。
子供に備わった能力を、親がじゅうぶんにみきわめ引き出せるかどうか、難しいと思う。
親のフィルターがかかるせいで、才能が伸びない、あるいは才能の開花が遅れるケースのほうが多いのではないだろうか。
人生はとても長い。その長さをどう生きるか。親は子の人生を背負いきれない、そう思っておいたほうが正解ではないか。
親の努力には限界がある。その割には影響力が大きすぎる。それが不幸のはじまりだ。
自分が立派な親ではないと認識している私だからこそ、こう考えている。
子供はなるたけ早く、親から離れたほうが良い。
あるいは、親ではない有能な大人のもとで成長させるべきだ。
親のフィルターではなく、もっと公正な目でその子の能力を判断し、その子に合った道を指し示してくれる大人のもとにいることのほうが適切だ。
それが子供にとっても幸せなこと。
子供が自分の力で大抵の物事が処理できるようになった時点で、身をひくことが私自身の親としての役目ではないかと。
自分の夢も、後悔も、思想も、常識もおしつけない。
子供の未知の才能の存在だけを信じる。
おろかな親であるところの私が、子供にとってできることは、これだけなのだ。