私の就職失敗記

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桜が咲き始め、家具屋やホームセンターが新生活を始める人で賑わうこの時期、思い出す出来事がある。

あれは短大最後の春、私は博多にある電力会社のビルの一室にいた。

「すみません。親が病気になったので就職をやめさせてください」

入社式を3日前に控えた3月の終わりだった。私の前に座っていた人事部のおじさん2人の顔が引きつっていた。おそらく社内での配属も決まり、研修の準備も完璧に終わっていたことだろう。なのに入社式の3日前になっていきなり「やっぱりやめる」と言い出した輩がいるのだ。

バブルの後半で、まだ就職は売り手市場だった。けれどさすがに天下の電力会社への入社を(入社3日前に)断る人間が出てくるとは想像していなかったようだ。

担当者は、

「まあ...親御さんがご病気なら仕方ないですよね...」

どうしようもない、やれやれ、という顔で私を眺め、やはり引きつった顔で見送ってくれた。親の病気とかいう見えすいた嘘は、先方も見破っていたに違いない。

大阪生まれの大阪育ち、短大も大阪だった私が九州の会社から内定をもらった理由は、当時つきあっていた大学4年生の彼氏が長崎の出身で、卒業後に実家に戻って教職につくことがきまっていたからだ。

親との関係が悪く、少しでも早く家を出たかった私は、彼の帰郷についていく形で九州に職を求めた。すると運良く、大会社であるところの電力会社から内定をもらった。両親は手放しで喜んだ。福岡市内や佐賀の有田に親戚がいることもあり、誰もが知っている会社への就職なら文句はない、とのことだった。

今から思えば、就職を九州に決めた理由は、彼氏の出身地だからではなかった。一刻も早く家を出る理由がほしかったのだ。

入社が近づいた3月、交際は終わった。別れを告げたのは私だった。とつぜん九州に行くのが怖くなったのだ。このまま彼との関係を続け、プロポーズされ、会社をやめてお嫁さんになり、家庭に収まる。そんな焼き魚定食のような想定可能な人生を歩むなんてお先真っ暗ではないか、と絶望に襲われた。

私に別れを告げられた彼は泣いた。しかしやめると決めた私は、淡々と会社に連絡を取り、新幹線のチケットを取り、お詫び行脚に出る準備を整えた。親からは当然のように激怒され、父親は私と目を合わさなくなった。2週間後、深夜に荷物をまとめ、幼馴染のTくんに頼んでクルマを出してもらい、家を出た。とりあえず短大時代の友人宅にころがりこんだ。

これから先、どうしよう。友人の布団の匂いをかぎながら、心細くなった。もう後には引けない。不安でいっぱいだったが、それでもやっぱり嬉しかった。私はやっと自由になったのだ。

恋人の家に住みついて自分のワンルームは使っていないから、と部屋を融通してくれた友人のおかげで仮の住まいに落ち着いた私は、中之島の一流ホテルでパーティコンパニオンまがいの仕事をして生活費を稼いだ。まだ時代はバブルだったので、収入は多かった。毎日のように宴会場で繰り広げられるきらびやかなパーティのVIP担当に任命され、真っ白のスーツに身を包んで「社長」「先生」と呼ばれる人たちをもてなした。

こうして文章に書くと「転落人生のはじまり」のようなエピソードだ。

その後、両親と和解し、バブルが崩壊し、小さな編集会社に見習いとして入った私は、天満橋の雑居ビルでひたすら目の前の仕事に打ち込んだ。ライターに発注するよりお前が書けと命じられて毎日毎日、大手自転車部品メーカーの広報誌の記事を書き続けた。イベントの企画をする流れで、司会者に欠員ができたために抜擢されて司会もするようになった。台本が書けて喋れる司会者は重宝された。気がついたら、スポーツイベントの司会者兼ライターという肩書きがついた。そこで出会った学生の自転車乗りと結婚した(その間にも色んな出来事があったが、ここでは割愛する)。

人生、何がどう転ぶか分からない。

恥ずかしい就職失敗の出来事も、今では「若かったなあ」と振り返ることができる。しかしどれほどの人に迷惑をかけただろうか。

この春からフリーで仕事を始めた。

今は、過去に出会った人たちに心の中で頭を下げながら、罪滅ぼしの気持ちで仕事に向かっている。発注してくれた人を失望させないことだけを心に誓って。