能「楊貴妃」狂言「因幡堂」

f:id:reikon:20120902044652j:plain:w250:rightかねてから行きたいと思っていた能を観に京都観世会館へ出向いてきました。家から自転車で行けるところに能楽堂があったのに、今までとんと関心がなくもったいないことをしていました。

まず中に入り、屋内にしつらえられた能舞台の美しさに息をのみました。また、変なところに目が行ったのですが、会場にやってきた主に年配の女性たちの身なりがとてもきちんとしていて、気持がよかったです。意外と着物姿の人はいませんでした。

初めての能は「楊貴妃」。唐の皇帝の命で、死んだ楊貴妃の様子をうかがいに常世の国(黄泉)に出向いた方士が楊貴妃と出会いやりとりをするお話です。

帝の寵愛を受けつつも本当は天上界の仙女であり結ばれる運命ではなかったと涙する楊貴妃の哀しみと美しさを描いた作品。端正な能面をかぶったシテの楊貴妃が、帝と交わした愛の言葉を再現して舞ったあと、すべてが終わり演者らが去ったあとの余韻が強烈でした。

まさにあちらの世界から引き戻されるもまだふわふわと地に足がつかない心地で、これはすごい世界を知ってしまった、と呆然としました。

現実世界で近視眼的にものを見て生きている日々。なのにここでいきなり「あちらの世界」に引き込まれて、どうしようかと戸惑うと共に、なんと美しく心地よい世界なのだろうと酔いしれました。

そして、常世の国でひとり帝を思い涙と共に舞う楊貴妃の姿をながめながら、実は私もこの世にいながら本当は幽霊だったりするとどうだろう、この世で出会った男性たちとの関係は、全て儚くもろい刹那の出来事なのだとしたら....。そうであれば哀しくも美しく、切なくも愉快であるなあ、などとわけのわからない妄想にまた酔いしれるのでした。

楊貴妃が終わった後に演じられた「仕舞」は、これまた「動」の美しさと力強さに圧倒されて、一気に覚醒しました。そして「動く落語」のような狂言に笑わされて、なんとも面白おかしい半日を過ごしたのでした。

カラマーゾフの兄弟


i文庫というiPhoneで読める青空文庫から『カラマーゾフの兄弟』を読んでいます。
ドストエフスキーが残した最高傑作とされる本ですが、20代はじめの頃に手にしたときは、一体なぜこれが普遍の名著と呼ばれるか全く分からず、またたくまに挫折しました。
しかし今は、まだほんの300ページほどしか進んでいないにもかかわらず、人間の真理(らしきもの)を説いたくだりが満載で、唸りながら読んでいます。
まだ序盤部分ですが、兄弟と父親が出逢ったゾシマ長老の言葉で、心に残った部分をメモしておこうと思います。

肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことじゃ。みずからを欺き、みずからの偽りに耳を傾ける者は、ついには自分の中にも他人の中にも、真実を見分けることができぬようになる。したがって、みずからを侮り、他人をないがしろにするに至るのじゃ。何びとをも尊敬せぬとなると、愛することも忘れてしまう。愛がなければ、自然と気を紛らすために、みだらな情欲に溺れて、畜生にも等しい乱交を犯すようなことにもなりますのじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する、絶え間のない偽りから起こることですぞ。

みずから欺く者は何よりも先にすぐ腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいものじゃ。な、そうではありませんかな?そういう人はちゃんと承知しておりますのじゃ、---誰も自分をはずかしめたのではなく、自分で侮辱を思いついて、それに潤色を施すために嘘をついたのだ。一幅の絵に仕上げるために、自分で誇張して、わずかな他人のことばにたてついて、針ほどのことを棒のように言いふらしたのだ。---それをちゃんと承知しておるくせに、われから先に腹を立てる。それもいい気持になって、なんとも言えぬ満足を感じるまでに腹を立てるのじゃ。こうして本当の仇敵のような心持になってしまうのじゃ...。

愚痴というものは、ひときわ心を刺激し、掻きむしることによって、ようやく悲しみを紛らすばかりである。こうした悲しみは感謝を望まないで、あきらめきれぬ苦悩を餌食にするものである。愚痴とは、ひたぶるに傷口を食い裂いていたいという要求にほかならない。

その人が言うには『わたしは人類を愛しているけれど、自分でもあさましいと思いながら、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少なくなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なほどの想念に達して、もしどうかして急に必要になったら、人類のためにほんとに十字架を背負いかねないほどの意気ごみなのだが、そのくせ、誰かと一つ部屋に二日といっしょに暮らすことができない。それは経験でわかっておる。相手がちょっとでも自分のそばへ近寄って来ると、すぐにその個性がこちらの自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者をすら憎みだしてしまうことができる。』

何より大切なのは偽りを避けることじゃ、あらゆる偽り、ことに自分自身に対する偽りを避けなければなりませぬ。自分の偽りを観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを吟味なさるのじゃ。それから、他人に対しても、自分に対しても、あまり潔癖すぎるのもよくありませんぞ。あなたの心の中にあってきたなく思われるものも、あなたがそれに気づいたという一事ですでに清められておりますのじゃ。恐怖もやはり同じように避けなければなりませんぞ---もっとも、恐怖はすべて偽りの結果にほかならぬのじゃが。また愛の到達についても、けっして自分の狭量を恐れなさるな。そればかりか、その際に犯した自分の良からぬ行ないも、あまり恐れなさることはありませんじゃ。

なにしろ実行的な愛は空想的な愛に比べると、なかなか困難な、そして恐ろしいものじゃからな。空想的な愛は急速な功績を渇望し、人に見られることを望むものじゃ。実際、極端なのは、まるで舞台の上かなんぞのように、一刻も早くそれが成就して、人に見て感心してもらいたいが山々で、それがためには命を棒に振っても惜しくない、というほどになるのじゃ。ところが、実行の愛となると、これはとりもなおさず労働と忍耐じゃ。またある人にとっては、一つの立派な学問かもしれぬ。しかし前もって言っておきますがの、どのように努力をしても目的に達することができぬばかりか、かえってそれから遠のいて行くような気がして、慄然とする時、そういう時、あなたは忽然として目的に到達せられるのじゃ。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

ブログタイトル変更、大文字、文化の吹き溜まりにて


ふと思い立って、ブログのタイトルを変えてみました。

最近、「こころ」という言葉が私にとってぐんと身近になりました。

こころのありか、こころの仕組み、こころのなりたち、こころがあるゆえん、こころとこころの関係性。

それらを研究するセンターで働くようになってから、「こころ」という言葉のもつ魅力と不可思議さをあらためて感じています。

そんなわけで、少しだけ新しくなったブログをよろしくお願いします。


f:id:reikon:20120830033849j:plain:w200:right昨日の朝、大文字山を登ってきました。

銀閣寺まではロードレーサーで行き、そこからは歩いておよそ30分。山頂を吹き抜ける風はすっかり秋のものでした。

送り火が終わったばかりなので、火床は煤だらけ。縁起が良いからと炭をひろって歩く妙齢の女性がたくさんいました。

誰もいない大の字のてっぺんに腰掛けて、眼下に広がる京都の街並をしばし眺めました。

やはり京都は特殊な地形の中で、独特の発展を遂げた町だとあらためて思いました。

三方を山に囲まれた盆地にひしめきあう町家と寺社仏閣、大学の数々。

風が抜けないこの土地で、文化、精霊、知が滞留し、醸成し、歴史を作り上げてきた。

吹き溜まりというと悪いイメージだけど、まさに「歴史と文化の吹き溜まり」といえる場所、京都。

縁あって、ここに辿り着いた私も、京都で吹き溜まった塵芥の一片。


ところで、この秋は、京都にいるからこそ出来ることに色々と愉しんでみようと思っています。

この妙なる土地の歴史の構成員であることを意識しつつ、伝統文化にふれてみたいです。

明日はひょんなことでお世話になることになった着物の古着屋さんで着付けのレッスンことはじめ。

和装美人の友だちのように、私もはんなりと都大路を歩けるかしら。

楽しみです。