ハッピーなゴールをめざすために

f:id:reikon:20120825014720p:plain:w250:right一緒にいて気持ちのいい人って、やっぱりどんな状況でも人に対して攻撃的にならない人なんじゃないかなあ。

仕事でも、プライベートでも、どんなときでも、常に「幸せなゴール」を目指せる人がいいなあ。

どんなときにも、互いの「言い分」っていうのがあるし、それが立場によって異なるから、摩擦も生じます。

でも、そこで自分の権利ばかり主張して、相手を阻害するのって、どうかなあ。

結局、自分が勝った気でいても、めぐりめぐって自分の評価が落ちたり、自分が困ったときに助けてもらえなかったりするんじゃないかなあ。

お互いの意見を尊重しつつ、落としどころを探って、「これでいいよね」と納得し合えたらハッピーだよね。

ちょっとした理解への努力と、ハッピーなゴールを目指そうとする意志次第だと思うわけ。

だから、世の中の好戦的な人は、ぜひそのやいばをさやにおさめて、かわりに笑顔を武器にして、戦いではなく和平交渉で解決する意志で物事に取り組んでいただきたい。

世の中、もちつもたれつ、お互いさま、助け合ってなんぼ、なんですから。


f:id:reikon:20120825014813p:plain:w300:right話はかわって、今日はミュージシャンをやっている友人が芸大の音楽ワークショップで歌ってくれるというので、息子と行ってきました。

いやあ、アジア、アフリカ、日本のガラクタと、ありとあらゆる楽器をさわりながら、みんなで歌ってリズムに揺られて、心地よい時間だった。

圧巻は、彼女のマイクなしの歌と、明るい笑顔と、それをバックで支える家族と友だちの明るいサポート。

さっき書いた「ハッピーなゴール」をめざす人を地で行ってる友だちなので、歌からも元気をもらいまくってきました。

年下だけど、ある意味、私の人生後半の師匠です。

今の職場のセンター長の女性も師匠。遠いアメリカに住む年上の二人の女性も師匠。

みんな前向き。身近な人を悪く言わない、おとしめない。どんな摩擦もなめらかにする努力をおしまず、問題が起こっても円満解決を図る達人。

だからいっしょにいられる私は幸せ。

明日もハッピーな一日をめざしていこう。

好きになれる自分が好きだから幸せ

f:id:reikon:20120822032130p:plain:w250:right片思いとか、アイドルやスターへの憧れとか、そういうものに対して全く理解不能だった。

「たんなる一方通行で自分の思いが伝わらない、受け入れられないなんて、ありえない」。

愛するなら愛されなくては。焦がれるなら焦がれられてなんぼ、と思っていた。

ギブアンドテイク。

その昔、柔道の金メダリストで人気を馳せた山下選手が結婚したとき、奥さんになる人が「私だけが山下さんを知っていて山下さんが私を知らないなんて不公平だ」という旨のラブレターを手渡して成就した、というエピソードが有名になった。

そうだそうだ、好きなら好きになってもらう権利を獲得すべきだ、と納得していた。

知り合いで藤井フミヤに夢中な女性がいて、(当時は)寝てもさめても「フミヤラブ」だった。
永遠にフミヤに自分の存在を知られなくても、好きは好き、という彼女の熱狂に対して、全く共感できなかった。

でも最近は、どんな形であれ、人を好きになるというだけで得られる幸福感もあるのではないかな、と思い始めている。

好きになれる相手がいる、愛せる対象がある。
誰かを好きになれる自分がいる、愛せる自分がいる。

どうやらそれだけでも、とても素敵なことのようだ。

人は、欲しいものを全て手に入れられるわけではない。

努力すれば、うまいやり方を考えれば、手に入ると思っているとすれば、とても傲慢な考えだ。
また、自分にメリットを与えてくれないものには愛情をかけない、というのは利己的だ。

この人はとても素敵だ。出会えて良かった。
こんな人がこの世にいてくれて、嬉しい。
こうして同じ時代に生きていること、存在を感じられることに感謝したい。

そう思うことで、得られる幸せもあるのではないだろうか。

それには今の自分がひとりであっても、満足できる自分であることが前提なのではないか。
かたくるしくいえば、自己が確立している、ということだろう。

他人から、周囲から、何かを得なければ満足できない自分であれば、自分ひとりの精神行為に満足できない。だから「与えられてなんぼ」と思ってしまう。

他人に依存しないからこそ、他人を愛せる、ということ。
他人を好ましいと思える自分が好ましいから、それだけでも幸せを感じられるということ。

それに気付いただけでも、今の私は幸せ。

もちろん、相思相愛になることが、最も理想的ではあるけれど。

手に入らないからこそ、輝くものもある。

復帰第一弾、思いがけない再会

f:id:reikon:20120819015928j:plain:w220:right6月から仕事をさせてもらっているセンターでの大きな講演会の仕事を終えました。

「こころの広場」という京都府との共同企画で開催したイベントで、生物人類学者の内田亮子さんと脳科学者の入来篤史さんに講演いただき、私は司会進行をつとめました。

「進化の時空間で人間性について考える」という内田さんのお話は、数百万年の流れのなかで人類がいかに進化し、その過程でどのように人間特有の「らしさ」や文化、社会性が育まれてきたかを、これでもかという量の研究事例をもとに発表されて、とても刺激的でした。

「こころはどこに宿るのか?:身体と文化の狭間で」という入来さんのお話は、人の活動を制御する高度な情報システムである脳の仕組みについて、サルへの実験から得た研究成果や多彩な事例をもとに解説され、脳の働きがいかに人の「こころ」をなりたたせ、人の社会活動から生まれた文化とどう影響しあっているかをダイナミックに語られていました。

...などと書いてはいるものの、私が理解できた内容はごくわずかだったので、このように紹介するのが恥ずかしいくらいです。けれど、今この世に生きる私が、長い人類や生物の進化の過程にある一員であり、未知の可能性を持つ脳というものを携えているという、これまでの自分にはなかった見方を得られ、あらためて「知らないことを知る」ことの面白さすばらしさを実感したのでした。

そして、私にとっては司会の仕事の本格的な復帰第一弾。イベントならではのバタバタはありましたが、無事に終了させることができました。

思えば披露宴やスポーツイベントなどを中心にマイクを持って活動していたのが今から10数年前のこと。もうすっかり錆び付いてしまっていた自分の司会の技術。それを3月からのレッスンでなんとか錆をこすり落として今日に挑みました。結果、大きなトラブルもなく、時間内で無事に終了させることができました。

しかしアカデミックな講演会というのは、単にスムーズに進行させるだけでなく、講演者の話の内容を受けてうまく討論をまとめたり発展させたりする司会者自身の知識や技量が必要で、にわかじこみの私が到底うまくこなせるものではない、ということも痛いほど思い知らされました。

大学でおこなわれるシンポジウムやセミナー、学会、研究会などではほとんど研究者が司会をしている理由がよく分かりました。この点は、私にとって大きな課題であり、限界を感じながらも、どうにかしていきたいと思っているところです。

今回の私の未熟な進行に対して非情に協力的に、気持ちよく、場をまとめてくださった先生方、とりわけ入来先生には感謝してもしきれません。

もうひとつ、とても驚いた出来事がありました。

会が終了した後、声をかけてくれた京都府の文化事業担当者が、なんと私が十数年前に自転車業界で仕事をしていたときにお世話になっていた京都府自転車競技連盟の矢野さんでした。

長い年月を経て、別の場所で再会したことに驚くと共に、マイクを手にして活動を始めたとたんに、かつてお世話になった方と再び新たなつながりを持てたことに感激しています。

司会業に関しては、この春から今日の復帰に焦点をあてて準備を進めてきましたので、なんとか再スタートが切れて、ほっとしています。

大変な世界に踏み込んで、また大変な仕事を再開してしまったなあ、という思いはありますが、やっぱり私はどんなジャンルであれ「イベント」が好きなんだなあと思います。

次はどんなところで、どんな出会いがあるだろう。

色んな人に感謝しながら、夜にあけたワインはしみじみと美味しいのでした。