気の抜けた夜中のつぶやき

明日はとても大事な講演会の仕事があって、その準備でひさびさに夜更かしをした。

まだ神経がピリピリしているので、眠くならない。かたわらではしなもんがスーハーシーハーという変な寝息をたてて眠っている。

私の頭の中のことを考えている。

私は記憶力が異様に弱い。それから大事なことをよく忘れる。

人の話をうまく理解できない。聞いた話を覚えられないし、読んだ話を忘れてしまうので、人との会話で気の利いたことが言えない。

「ああ、あの本ってなんだったっけ、ああ、あの出来事の人物は誰だっけ」と思い出せないでいるうちに会話がどんどん進んでしまう。自業自得で損をしている。

ひとことでいうと、頭が悪いのだ。

私の頭の悪さは、どこからきているのだろう?なんていうことを考えてしまう。

ニホンザルは道具を持つ事を覚えて使い始めると、脳の使われていなかった神経細胞が活動するようになるという。

私も、何かをすると、もっと脳の神経細胞が活動し、賢くなれるのだろうか?

その「何か」が何か教えてもらいたい。

今日は、そんな脳を研究されている先生と、いま働いているところのセンター長と食事をした。

想像していた通り、とにかく「もの知り」で会話の幅がとてつもなく広く、ひとつの話題に対しての切り込み方や深みがすごい。おまけにそんなすごさをまったくひけらかさず、ウィットにとんだ会話で色んな事を笑い飛ばしている。

私はひたすら美味しい食事を口に運びながら、ぽかーんとしていた。でも、そんな私に対して、二人とも、とても分かりやすく色々なことを教えてくれた。

解散後、あまりに心地よい時間だったので、ぼーっと口をあけて交差点でたたずんでいたら、分かれたはずの先生がスタスタ歩いてこられて、また挨拶をしたけれど、とてもはずかしかった。

カミナリがごろごろ鳴るなか、自転車をこぎながら、先生がたの会話を思い出していた。学生時代はぜんぜん勉強などしなかったのに、今はなんと熱心な生徒なのだろう!

・・・しかるに、私は頭が悪いから、頭の良い人がとても好きなんだと思う。

とってもとっても憧れている。

だから私も道具を手にしたニホンザルのように、何かを手にして自分の頭を活性化させたい。

とりあえず、本とペンとマイクはいつでも手にすることができるのだが、それで効果はあるだろうか。

なんとまあ、人生も折り返し地点を過ぎたような人間だけど、性懲りもなく、ちょっとでも進化したいのだ。

あとは、若さを取り戻したいなあ、なんて。

本当にあさましいものだ!

Anyway.

明日はとても大事な日なので、そろそろ無理やりにでも寝ようと思う。

少しでも頭とからだを休めなければ。

熊手を手にしたニホンザルのように、私もマイクを手にして何かを変えたい。

おやすみなさい。

自分の殻からぬけだして

f:id:reikon:20120816150839j:plain:w250:right先週末から4日間、息子と共に新潟の妙高高原まで旅してきました。

現地には笹ヶ峰ヒュッテという京大山岳部OBが建てた素敵な山小屋があり、誘ってくれた息子のクラスメイト一家やその家のご友人たちと共に、高原の時間を満喫してきました。

行きはちょうど東京で仕事が入ったため、私と息子だけ東京経由で現地入りし、帰りもひと足お先に長野〜名古屋を経由して特急、新幹線をのりついで帰ってきました。片道6時間に及ぶ大旅行でした。
4才の息子は長旅で疲れきっていましたが、それでも母親をひとりじめしての大好きな電車の旅で、終始ごきげんに過ごしていました。

この旅ですが、実のところ誘ってもらった瞬間も迷いましたし、後から仕事の話も出てきたので何度かキャンセルしようと思った時期がありました。なんせ4才の息子を連れてこれだけの長距離移動は初めてですし、始めたばかりの仕事先での大きなイベントを旅行後に控えているので大変そうだな、と思ったからです。

でも、燕温泉、関温泉といった源泉掛け流しの温泉を堪能したり、早朝に女二人で牧場や森林のなかでジョギングをするなど、素晴らしい自然のなかでリフレッシュできたうえ、息子の友だち家族や友人との楽しい語らいや男性陣による山小屋料理もすばらしく(息子の友だちのパパはものすごいグルメで料理上手)、胸をいっぱいにして帰ってきました。結果的には、本当に行って良かったと思った旅でした。

今回誘ってくれたゆきちゃん(息子の友だちのお母さん)から「電話で誘ったらすぐにOKをくれて、とってもうれしかったわー」と言われたので、「実は今年に入ってから、人から声をかけてもらったことには、なるたけYesと受けることにしているの」と返事しました。

本当にそうなのです。もちろん用事があったり、どうしても違和感を感じることにはNoと言いますが、自分が信頼を置いている人からの声がけにはYesで応じるようにしています。実際、そうしていると、日々がどんどん楽しくなり、人間関係も、仕事も、家族との日々も充実するようになりました。

この話を聞いていたゆきちゃんが「へえー」と驚いていると、ゆきちゃんのご主人が、「人が人に声をかけるときは、色々と考えた末に”この人だから”と結論を出して声をかけるんだよ。だから応じたらいいんだ」というような内容で、私の持論をサポートしてくれました。大学の先生らしい説得力あるコメントでした。

今の仕事も、突然、電話をもらって話を聞いたときは、実は戸惑いや迷い、不安やおそれがありました。仕事を始めたあとも、色々な新しいアイデアを聞いたときは「できます」よりも「難しいです」とつい言ってしまいそうになりますが、なるだけ「やってみます」と言うように努めています。

でも、やってみたら意外となんとかなるんですよね。そして絶対に自分の糧になる。真心をこめて対応したら、人との絆も深まるし、次にまた新しいことができたり、新しいつながりへのきっかけができたりします。

今までは、自分のこだわりを優先して、つい自分の殻にとじこもっていた私。おかげで現状から進まず進歩も変化もできず、全てがよどんでしまっていました。こうして、自分のスタンスを少し変えるだけで、こんなに生活が、人生が楽しくなるとは。予想外の驚きです。

まだまだ取捨選択は下手だけど、そんなわけで今は「なるたけYes」で楽しい日々を送っています。かけがえのない機会をくれている人たちに感謝しながら。

明後日は、いま仕事をしているセンターが主催する大きな講演会で、初めて司会進行役をつとめます。久々にマイクを持つ仕事への復帰です。これまで経験したことのないアカデミックな場での大役ですが、来てくださった方に喜んでいただくことだけを目標に、役目をまっとうしたいです。

8月

人はどうして人を殺せるのだろうか。

名無しの人であれば、知らない人であれば、殺しても罪を感じないのだろうか。
自分と関係のない人であれば、どれだけ殺しても構わないと思うのだろうか。
戦争という名目であれば、誰かの命令であれば、それが使命だと思い込んでしまえば、何万人をも一度に殺せる兵器を作り、スイッチを押せるのだろうか。
どうして今も核が世界中にあるのだろうか。
どうして今もどこかで誰かが誰かと闘っているのだろうか。
どうして今も人が人を殺そうと、傷つけようとしているのだろうか。
どうして考えないのだろうか。
人が命をうしなうとき、その人とその周囲の人が、どれだけのものをうしなうのか。
人が傷つけられるとき、どれだけ身体と心に痛さと辛さをこうむるのか。

私たちはもっともっと学ばなければならない。
歴史から科学から哲学から倫理から宗教から。

でも何よりも大事なのは、もっともっとたくさんの想像力を働かせることだ。
私の知らない人も、ちがう言葉を話す人も、遠い場所に住む人も、
私と同じように、誰かのお腹から生まれ、誰かに育てられ、誰かに大切にされていることを。
私と同じように、傷つけられれば痛みを感じ、哀しみや辛さをおぼえることを。
生活を、肉親を、未来を失えばどんな過酷な状況になるのかということを。
もっともっと想像して、心にたたきこまなければならない。
この世に生をうけたものは、みな等しくかけがえのないものだということを。

8月。
たくさんの人が死に、苦しみ、私たちに多くを教えてくれた夏。
広島と長崎に原爆が落とされた月。

8月は命の大切さをもう一度考える月にしたい。
今こうして生きていることに感謝をしたい。
そして平和のために自分ができることを考えたい。
たくさんの想像力を働かせながら。
毎日をかみしめながら。