東大路と鞍馬口の交差点で

f:id:reikon:20121110144805p:plain:w280:rightクルマで東大路通りを走っていて、鞍馬口との交差点が見えてきたとき、ふと妙なノスタルジーに襲われた。

ああ、このなんでもない風景を、もしもこの土地を去ってしまった後に再び訪れて見たならば、とてつもない懐古の思いと愛おしさを感じるのだろう。

失っていないものを、失ったと仮定して、それをみつめてみる。すると、急に価値が高まる。かけがえのなさを実感する。

だとしたら、ふだん私が接しているあらゆるもの...家族、友人、好きなモノ、趣味、すべてについて、「失うかもしれないものたち」としてつきあうのはどうだろう?

共にいて当たり前の人もモノも、実はこの日、この瞬間ごとに変化している。明日にはその存在が消えるかもしれない。私との関係が変わるかもしれない。距離が遠のくかもしれない。

だからこそ、大切にする?だからこそ、特別に思い、接する?

失うかもしれないことが分かりすぎて、刹那主義になっていた私は、その逆だったよね。

どうせ失うのなら、期待せず、いれこまず、ほどほどの関係と距離で。

あきらめやすく、ドライで、壁を作って。

そんなポリシーを180°変えたらどうだろう?

ふだんある(と思っている)ものとの繋がりを永遠だと信じて、そして失うかもしれないものとして大切に扱う。いつまでも共にいるための努力をする。

大変だろうか?私にできるだろうか?

東大路と、鞍馬口の交差点を曲がるとき、なぜかふと思った。

特別なステージは、遠くにあるのではない。

大切な道は、いま、この目の前に開けている。