意識の水脈

人と人の意識、あるいは魂、あるいは精神は、深いところの水脈でつながっている、という考えを1〜2年前あたりからよく耳にする。
おそらく何年も前から言われていることなのだろう。私がようやくその考えにアクセスできる状態になったのだと思う。
人と人は、どこか深い部分でつながっている。おそらくそれは正しいことなのだろう。目に見えないことだし実証は不可能なのだろうけれど。そのようなことを言う人は、さまざまな個人的解釈と個人的実体験から、あるいは学術的蓄積からそのように述べているのだろう。
その水脈は、おそらく死や生を超越したものなのだと思う。そこには夢や超常現象といったものが関わっているのかもしれない。そして、自然と神はそこに強く結びついているのだろう。鬼も天狗も天使もそこにいる。人の観念を介して。
特に主張はないけれど、そのような意識の水脈論を信じることは、私にとって”救い”に近いものだ。
目の前にいようがいまいが、二度と会えない死別した相手だろうが、元には戻れない関係だろうが、そんなことは浅く軽いこと。
この世とあの世のすべてのものは、意識の、魂の、精神の水脈でつながっているのだから。

無題

立春が間近にせまる。あたたかな日差しがカーテン越しにさしこんできた。カーペットに三角座りして、しばらくお日様の毛布に包まれて蓄電した。さきほどネットを経由してコンビニで受け取ってきた『新潮1月号』をめくる。お目当ては森田真生さんの『計算と情緒』。書き出しの文章で、もう森田さんの澄んだ世界が始まって、私の脳の中までが彼のみずみずしい感覚(これこそ情緒かしら)で満たされた。
読み始めるのが遅くてタイムリミット。3ページ目が終わるところで出かける時間になってしまった。土曜日だけど今日はセンターでセミナーが催される。『為末大×下條信輔対談』。昨日は自転車を駐輪場に置いたまま街に出かけたので、家からは徒歩で向かう。日差しがあたたかいおかげで、いつもより体の力がゆるんでいることが分かる。冬のあいだ、ずっと体の肩あたりから足先に一本の針金が通っているような緊張を感じて過ごしている。その感覚は、2006年から一戸建ての家に住み始めてからだ。生まれてから一度も一戸建ての家に住んだことがなかった。アメリカに移住したとき、初めて一戸建ての家に住んだ。南側に小さな林があって、夏は涼しく快適だったが、冬場にまったく日差しが家に入らず、おまけにセントラルヒーティングが効かずにとても寒かった。その冬はひたすらリビングのソファに毛布を持ち込み、しなもんを抱えて過ごした。2008年に京都に戻ったとき、先に帰国した夫が見つけたのは、出町柳から徒歩5分の住宅街にある一戸建てだった。アメリカ帰りにうってつけの広い庭がある築20年の家。3月に帰国して入居したとき、京都の底冷えってこういうものだったのかと体感した。マンションとは明らかに違う冷気を味わって、春の訪れを待ち望んだ。
以来、冬は体の芯に常に力が入ってしまい、早くゆるゆると心身をゆるめられる春が来ないかなあと待ち望んできた。あともう少しだ。ヒールをこつこつといわせながら吉田市場の横の路地を通りぬけ、好きな煉瓦の建物に目をやってから、センターに入った。
センター長室にはすでにゲストの入来先生が来ていて、なごやかに話をしている。続いて下條先生がやってきた。昼食会場にはすでに為末さんが到着して待ってもらっている、とセンター長秘書のとみーちゃんが慌てて駆け込んできた。静かだった空間がどんどん賑やかになってきた。昼食会場の会議室にコーヒーを運ぶと、さっそく心理学用語が飛び交っていた。下條先生のキレのいいトークが聞こえてくる。

つづく

ウェブに住む人たちは、死ぬ間際も画面に向かってつぶやき続けるのだろうか

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2週間近く前にちらちゃんからもらった花がまだ咲いている。朽ちる直前の花の持つ妖気を感じる。

24時間、自分の意志のままに行動していると、どうしてもブログを書く意欲が減退する。

けれど、このブログでないと私の近況や想いを届けられない相手がいる。その対象のひとつは、ウェブのみでつながっている人。勿論読んでもらえているかは定かではないが。

彼らはあなたの人生にとって必要のないものですよ、と何処かで誰かがつぶやく。いいえ、そうではないのです。彼らがウェブに存在するかぎり、彼らとつながり続けるべきだし、断ち切ることはできないのです、と私は答える。本当にそうですか?と声がする。分からない。でもまだつながっていたい。

昔は、直接のやりとりや人を介した伝聞だけが誰かとつながる手段だった。そのほうがどれだけ楽だったことだろう。

でも今はちがう。ウェブという曇りガラスの向こうにいる相手の存在を無いものにはできない。電波にさえ乗ればテキストや画像により形成された相手の「存在」にふれてしまえるから。あるいはこちら側から自分の動向を発信することで「想い」を届けられる可能性がある。そのかすかな希望と可能性は、時に酷な状況を生み出す。たとえばもう忘れたいと思っても画面から存在が漏れ出るとき。たとえば相手が(もしくは自分が)ウェブから不在になったとき。

ウェブ時代の人たちは、手応えのない人間関係のなかで生きている。コンテンツ化された人の動向をうかがい、自分の動向をコンテンツとして提供する。直接性のないコミュニケーション。流れていく時間と情報の波にただよう、対象性と主体性の薄いつぶやき。満たされているようで常に満たされず、さらにウェブにとりすがる。

ウェブはリアルを補完するもの。そう割り切ってしまえば良いのだろうが、そうではないことをもう知ってしまった人たちがいる(私を含めて)。彼らの人生は、これからどんな方向に向かっていくのか。年老いて、死がせまったときも、その間際まで画面に向かってつぶやき続けるのだろうか。