自然言語で語られる現象だけを部分的に検証する脳科学でどれだけ心というものを探究できるのか?と哲学者が脳科学者に問うた。
自分の想いを表現する手段として言葉がある。
言葉はとても便利だけど、既に存在する言語の組み合わせによってしか表現できないとすれば、どれだけ語彙力に長けていても、どれだけ言葉の並べ方が上手くても、完璧に想いをあらわすことなどできない。
だから、書いても書いても、どこか違う、と感じる。
けれど、既存の言葉を寄せ集めて、想いをなんとか言葉にすることにもメリットがある。
多少のでっちあげでもいいから言葉にすることで、漠然と雲のように漂っていた想いが、それなりの存在感を獲得して、人に見せられる形になるからだ。
形になった想いは、人へのギフトになる。
深夜、あたたかい麦茶をすすりながら、あつみちゃん(id:attsumi)の作った「一乗寺貼」を眺めていたら、そんな考えが頭に浮かんだ。
あつみちゃんの町への想いは、漠然としたものではないのかもしれない。確固たる愛に裏付けられた明確な言葉がこの冊子を生み出したのかもしれない。その生産過程はわからないけれど、想いを言葉にし、写真を添えて形にしたことで、彼女はギフトを作り出し、人に手渡すことができたのだ。
世の中のすべての形あるものは、人の想いが形になったものだと思えば、世の中はギフトであふれていることになる。思考するだけではコミュニケーションは成立しないんだなあ、なんてことを、ツルツルのページをめくりながら思ったのだった。
昨日のお酒がまだ体に残っているようだ。
ほおいjwてあえkだpげsだk;f、えsdp
(言葉にならない酔いを表現してみた)