学びながら世界を広げていった

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大阪南部のニュータウンでサラリーマンの父と専業主婦の母のもとで育った私は、さしたる教育も家庭で受けることなく、公立小学校から公立中学まで順位的には上位4分の1ぐらいの成績で過ごした。高校は家から徒歩10分で交通費がかからず制服が可愛いという理由で、両親の強い賛成のもと、学力より1ランクレベルが下の高校を受験した。大学進学は、唯一好きだった英語の試験だけで通る外国語短大を選んだ。バブルの最中に姉が短大から一部上場企業に入って華やかな生活をしているのを目の当たりにし、自分も一刻も早くつまらない勉強から解放されて社会に出て楽しみたいという理由からだった。短大ではビジネス英語や英会話を中心に学び、その後の社会生活では特に仕事で生かすことはほとんどなかった。今は日常英会話程度ならOKというレベルにとどまっている。こうして振り返れば、私の10代から20代前半の学びは、ごくごく普通の、何の特徴もないものだった。

社会人になってからは人と違うことをしたいという本能的な欲求は非常に強かったので、たまたま就職したホテル、たまたま転職した商社でそれなりに個性を生かして頑張った。とはいえ仕事の意義やビジネスの本質に触れることなく、身近な人間関係や、もらったお給料で遊ぶこと、何より恋愛が一番の関心ごとだった。それでも人よりも負けず嫌いだったことと承認欲求が強かったことから、自分の得意な人前に立つ仕事にシフトして行った。イベントの司会業をするためにアナウンサー学校に通い、自転車レースや各種イベント、披露宴等のMC業でそこそこ食べていけるようになった。それでも仕事によって自己実現や社会に貢献するという認識があったかというとそうではない。得意なことでお金がもらえて、人に注目してもらえるからやっていた、というのが実状だった。やはり最大の関心ごとは恋愛と結婚だった。

けれども自分の中で、この満たされなさを埋めるためには異性から愛されること以外のものを見つけなければ、という焦りがあった。人に満たしてもらうのでは塩水を飲み続けるようなもので渇望感は変わらない。そんな認識が確信に繋がってきたのもこの頃だった。そこで「勉強をしなおせば何とかなるのではないか」という思いが頭をもたげ、28歳で同志社大学の社会人入試を受験し、ひとり(厳密には引っ越し直前にコーギー犬をペットショップで買って一緒に)大阪から京都に移り住み、上京区のペットOKのマンションで仕事をしながら大学に通い始めた。

大学では何を勉強したい、という具体的な希望はなく、英文学部を選んだのもたまたま短大で学んだのが英語だったから、という安直な理由だった。おかげで勉強はハードだったし昼間には仕事も抱えていたので、体系的に知識を身につけたという実感はない。ただし衝撃的だったのは、ちょうど私が入学した前年から大学が本格的にインターネット環境を学生に解放し、全学生にE-mailが支給されるようになっていた出来事だった。まだ一般の多くの人は経験できないインターネットを利用した調べ物やメールのやり取りも学内の施設で行えるようになっていた。「大学ってすごい!学生というだけでこんな特権があるんだ!」と私は夢中になり、勉強よりもインターネット環境のある大学に通うことが自分の楽しみになっていった。

そうこうしているうちに、MC業をしていた自転車業界で私の存在は知られるようになり、京都大学で自転車競技に打ち込んでいた大学院生と知り合い同棲するようになった。その彼もインターネットが大好きで、日々、ホームページという自分の家のようなネット上の表現の場で日記を公開し、BBSといわれる掲示板で仲間とやり取りし、いろんな情報交換や交流をインターネット上で楽しんでいた。「令子のホームページも作ってあげようか」という言葉に「ぜひぜひ!」とお願いし、真っ白なトップページに真っ白な日記、真っ白な掲示板を作ってもらい、嬉々として更新をし始めたのが1999年ごろだった。もともと日記を書くのと言葉で人と交流するのが好きで、小学生の頃は家の洗面所に「令子ニュース」というA4縦位置一枚のニュースを毎週作成して張り出していた。そこには上半分は私が書いたコラム、下半分は家族がメッセージを書く掲示板で、紙の横には紐で鉛筆をぶら下げておき、家族が掲示板に書き込んでくれるのを心待ちにしたものだった。あれはホームページそのものだったと当時を振り返って思う。

こうしてインターネット好きの京大生と同棲から結婚へと至り、彼の思いついたアイデアで「はてな」というウェブサービスを手がける会社を作り、私は何も分からないけれど妻となった以上は夫をサポートすべきだという気持ちと、自分自身もひょんな経緯で社会人入試で入った大学でネットに出会って、自分のホームページ運営でネットがどんどん好きになっていたという理由から、はてなの創業メンバーに入ってがむしゃらに会社運営の波に飲み込まれていった。けれどもそこに私自身の仕事へのビジョンや会社を成長させるための知見もなく、ただ環境に対応するだけで必死のその後の10年があった。

あれよあれよというまに会社に人が増え、東京に行き、アメリカに行った。アメリカでは正直言って、暇な時間が多かった。夫は日本のメンバーと繋がり続けるために頻繁に帰国していたが、私はお腹の子と犬の存在があったので留守番組だった。そこでも「学校に行ったら何とかなりそう」という思いのもと、近所にあるカレッジで外国人のための英語を学ぶクラスに入った。そこでは恐ろしく教えるのが上手なレズビアンの文法教師に出会ってリアルな多様性の世界に目覚めたり(思わず惚れそうになって文法をめちゃくちゃ頑張った)、私より年上の日本人女性が地元で学びながら働く姿にも出会った。気づけばアメリカ文化にすっかり馴染みながら暮らす自分がいた。

そうこうしているうちにお腹が大きくなり、京都に戻って子供が生まれた。気づいたら育児に忙殺され、大きくなったはてなの会社とは距離が開いて、もともと分かっていなかった自分の存在意義がさらに分からなくなってきた。少なくとも育児だけでは満足できない自分がいた。承認欲求は相変わらずあって、それらはSNSやブログ更新で何とか満たされていたが、どこにも行けない、何もできていない閉塞感や焦りに見舞われた。そこでなぜかまた「勉強しよう」というアイデアが自分を駆り立て、気づけば家から一番近い京都大学の聴講生の試験を受けていた。今回はそれなりに吟味して文学部社会学科の聴講生になりたいと思った。自分が「なりきれていない」社会人になるために、まずは「社会」を知りたいと思ったのだ。聴講生とはいえ京大では一応入学試験があった。どんな試験かというと、社会学の論文が1ページ分ダーっと英語で書かれていて、「訳しなさい」というものだった。四苦八苦しながらも何とか適当に訳したら通過できた。面接もあったが、そこでは「はてな創業者」の名前を出して面接官から「あのはてなですか」と言われて、多分それが有利になったのかもしれない。晴れて2011年から一年間、京大の聴講生としてキャンパスに通うことになった。社会学の中でもジェンダー論の基礎の授業が面白かった。1950年代にアメリカで生まれた郊外型住宅と切っても切り離せない専業主婦の誕生、戦後の日本でアメリカの政策を手本に生まれた(私が生まれ育った)ニュータウンと専業主婦たち、そして彼女らが抱えたジレンマ、フェミニズム運動...。ジェンダー論以外にも社会学の講義を通して、自分という個を超えた社会の成り立ちや社会を動かす人たちの存在、社会問題を捉え議論する場、研究者という人たちの存在などなど、ほんのわずかな期間でも京大で学んだことは恐ろしく私のものの見方や自立心にまで影響を与えた。

そんな中、京大で聴講生をしていることを聞きつけた友人が私に声をかけてきた。彼女は京大で准教授をしており社会文化心理学者として活躍する女性研究者だった。「私の所属しているセンターでウェブの広報担当者を探しているのですが、やってみませんか?」というものだった。学問のなんたるかもまだまだ分かっていない私だったが、京大に出入りしていたおかげで、新しいキャリアに踏み出すきっかけを与えてもらえた。翌春から息子が保育園にいる間、京大で研究者らと交流し、彼らの業績をPRする仕事に従事した。気づけば、自分の中の閉塞感や社会人になりきれない焦りはなくなり、以前よりも広い視点で社会というものを見ることのできる自分になっていた。さらに京大の研究者らの論文や講義という知のシャワーを仕事で浴び続けることで、自分なりに社会課題を見出し、何かしたい、しなくてはという思いが少しずつ芽生えるようになった。その時には離婚が成立し、息子と共に新しい生活に踏み出す自分がいた。学びと自立、それは偶然ではなく必然的な繋がりがあったように思う。

こうして振り返ると、私がいま、アメリカの仲間と共に起業し、ビジネスの世界の端っこで活動し始めることができたのは奇跡のようでもあるけれど、折々で自分の中に芽生えた「学ばなくては」という思いに忠実に動いてきた結果でもある。それは「学んだらいいことがあるよ」という明確なサインがあったわけではなく、「今の自分から抜け出すには学ぶしかない」という不思議な本能的な感覚に突き動かされて動いた結果のような気がする。本能によって学ぶというのは変な感じだけど、よく考えれば、自分の環境から逃れるために留学したという女性や、勉強することで家庭のしがらみから離れられたという女性もいるので、私だけの固有の現象ではないのだろう。

今、私は2人の仲間と共に、超高齢化社会となった日本で人が少しでも幸せな人生後半を送れるようなツールをデジタルテクノロジーで開発し、提供するために準備を重ねている。すでに様々な可能性が出てきたので、ビジネスプランを形にするために多くの人と会い、活動を続けている。それに起因し、自分には不相応な場に出る機会も増えてきた。私でいいんだろうか?私でやっていけるんだろうか?そんな不安に襲われることが多いが、その度に私は、過去の「学び」にすがってきた自分を思い出す。そしてまた今、新たな学びの機会を得ることで現状から一歩前に進みたいと思っている。とはいえ、学校に行くようなまとまった時間はないので、人から勧められた本はできるだけ読むようにし、BSで放送大学の授業番組を見て、細切れの「学び」を吸収している。あとはビジネスで人と会うことそのものが学びの機会になっている。

そんなわけで、私のような学歴も専門知識のない人間でも、その時その時に「学ぶ」という行為を繰り返すことで、現状よりも少しだけ広い世界に出て、広い視野を得ることができたことは確かだ。その行為はいつでも何歳になっても続けることができるし、続けている以上、自分は成長できるということを実感している。そんなことを、昔の私のような悩みを持つ人に伝えていけたら...と、今、漠然と思っている。

Google が生まれた3年後にはてなが生まれた

japan.googleblog.com

「ある二人の大学生ラリーとサーゲイが「世界の情報を整理して誰でもアクセスできるようにする」という目標を立てたのも 1998 年でした。」

この3年後に、「話し言葉で質問すれば、ネット上の誰かが検索して答えてくれる」サービスを発案した京大卒の若者が、人力検索はてなを作ったのでした。

リリース当時は、アラートが鳴ったら夜中でも飛び起きて、誰かの質問に必死で回答していました。赤ちゃんの夜泣きも真っ青でした。笑

投資家へのプレゼン時には、KRPのブースで待機して、質問の答えを猛烈なスピードで探して回答しました。たしか「無料で英会話が学べるサイト」とかいう質問で、1分以内に5つほどのサイトをコメント付きで回答したら、先方はおおいに感激していたそうです(投資の話は実らなかったけど)。

Google Maps のAPIが出てすぐに「はてなマップ」をリリースして、日本のテック好きに喜ばれたのも懐かしい思い出。

Googleなくしては、私たちのベンチャー時代は語れない。

もう20年かあ。でもまだたったの20年なんだなあ。

何のために夫婦でいるのか

知人の奥さんが亡くなったと連絡がきた。

その知人とは五年前に知り合ったのだが、どこで会っても奥さんは同伴せず夫婦はバラバラだと言っていた。

実際、結婚してから30年近く、「亭主元気で留守がいい」(むかし流行ったCMのフレーズ)を実践していた夫婦だった。

2年前に奥さんが末期ガンと分かってから状況が一変した。

飲み会も、夏のレジャーも今まで一人で参加していた彼がまったく姿を見せず、朝から晩まで奥さんの看病に徹するようになった。

仕事も全て投げ打って、奥さんのことを面倒見る生活に切り替えた。

奥さんは奥さんで、夫以外の人には世話されたくない、他人の面会も受け入れない、ただ、夫がそばで看病していればよい、と完全に夫を占有しての最期を望んで日々を過ごしていたらしい。

そして奥さんは亡くなった。

30年も同じ屋根の下で別の暮らしをした夫婦が、最後に過ごした一年半の濃密な時間。

果たして何のために、誰のためにその時間はあったのだろうか。

私自身は一夫一婦制に疑問を持ち、夫婦が長らく継続するのは無理があると考えて生きている。

彼らは同じ屋根の下に生きながら別々の暮らしを30年送り、最後の一年半にひとつになって夫婦としての時間を昇華させた。

そこにある意味は何だったのか。

人生100年の時代になって、老後といわれる時間が人生の大きな割合を占めるようになった。

そのなかで夫婦はどうやって夫婦として一生をまっとうすればよいのか。

夫婦の幸せとはどういう形であればよいのか。

私は、もう戸籍上の夫婦には意味はないと思っている。

この生きづらい社会で自分や大切な人たちが明るく幸せに生き延びるために、いかに最適な人間関係を形づくるかがテーマであって、もはや夫婦であったり事実婚であったりというのは全く関係がないと考えている。

妻を亡くした知人は、このあとどうやって生きていくのだろう。

人の奥深さ、自分には理解しえぬ難しさを感じている。