春暮

http://instagram.com/p/mFJZgrSqZG/

昨日の夕景はことのほか美しかった。18時前、大学の正面玄関を出た瞬間に目に入ってきた空に釘付けになった。iPhoneに収めるまで十秒もかからなかった。

長らく会っていないカズさんという知人がFacebookで、

「私もこの飛行機雲見ました。」

とコメントした。ああ、同じ時間、同じ街で生きている人がいるんだと当たり前のことを想い、胸が熱くなった。

夜、いづみちゃんが、

「今日の夕焼けは、ひときわ染みたね。」

と書いてきた。

昨日は、彼女が毎日通った愛着のある場所を立ち去る日だった。写真をアップした数分後、荷物を積み込んで去って行く彼女のクルマの後ろ姿を見送ったのだった。言葉をかけられなかったけれど、良い風景を見られたなと思った。

恥ずかしさを感じながらも、

「春からは別の場所で夕陽を見るけど、ひとつの空でつながっていようね。」

という返事を書いた。素直な気持ちだった。

時間という縦軸も、場所という横軸も、人の心や魂という見えないものも、すべては途切れることなくつながっている。

人生には数々の節目がある。自分のさからえない部分で迎える節目もあれば、みずから決断して区切りをつける局面もある。

けれども、突然に白が黒になるわけではない。場所を変えても、状況を変えても、肩書きを変えても、決してすべてが一気に切り替わるものではない。何かしら、色々なものをひきずって次のフェーズへ移っていくものだ。

物であったり、想いであったり、関係であったり。それらは少なからず持ち越していくものであり、徐々に状態を変えていくものなのだ。

気付けばダウンジャケットが分厚く感じて汗をかくように、気付けば桜がほころんで景色が違っているように、自分も自然も少しずつ移り変わっていく。そして、前のフェーズと後のフェーズは、つながっている。いつまでも。

断ち切ろうと思っても、断ち切れないもの、ある。

でもそれが自然なのだ。いつか時が変化をもたらしてくれるまで、その時をなんとなく認識できるまで、私はその断ち切れないものを心の片隅にとどめながら、今を生きていく。

新しい景色を探しながら、作りながら。

向春

f:id:reikon:20140225172941j:plain:w350

冬と春がせめぎあっていたここ数日ですが、遂に春が勝利をおさめたようです。そんなポカポカ陽気の一日でした。

日曜日のブログには、たくさんの☆やブックマークやFacebookコメントやTwitterでの反応などをいただき、ありがとうございました。

卒業 - tapestry

「卒業しすぎだろう」という言葉には笑ってしまい、ショックだという声には申し訳ない気持ちになりました。ねぎらい、励まし、呆れ気味の感想などなど、いろいろありましたが、みなさんのあたたかい気持ちが伝わってきました。

結婚、創業からずっと私たちは、インターネットにいる人たちと共に歩んできました。

あまり認識していませんでしたが、サイトを訪れてくれる人、とりわけはてなIDを持っている人は家族同然と思ってきたきらいがあります(少なくとも私に関しては。だから村だとかいわれるのでしょう。承知しています)。そのため、オフィスにいる様子も、アメリカでの生活も、出産も、しなもんとの日々も常にウェブ上でみんなと共有したい、という理由から発信してきました。

だとしたら、最後の区切りまでを全て報告しないと誠実ではないと思いました。気持ちを整理したいという意図もありました。そんな経緯で先日のブログを書きました。やはり良かった、と思います。

個人的にもたくさんのメッセージをいただきました。こちらからも送ることができました。これでいよいよ躊躇なく前に踏み出せるように思います。

ところで先日、現在勤めている大学で、元陸上競技選手の為末大さんと認知心理学者の下條信輔教授の対談セミナーがあり、印象に残った話がありました。

ある調査でスポーツ選手を対象に試合前と後にアンケートを取った結果、「気分がのらない」と事前に回答していた人が、勝利した後の調査では「はじめからうまくいくと思っていた」と答え、負けた人はその逆の答えをし、調査対象の約6割以上が「直感の後付け再構成」をしていたそうです。

そこから導き出せる教訓はいろいろあると思います。私は、上記のことを知って、「そうか、あまり未来について考えすぎなくてもいいんだな」と思いました。また一方で、たとえ勘違いでも「やっぱり直感は合っていた」とのちに思えるのなら、「後付け再構成」は人間が幸せに生きるために授けられた能力なのではないか、と思いました。

不安はありますが、ワクワクも感じている新しい季節。これからもたくさんの人と共に歩んでいけたらいいな、と思います。

卒業

f:id:reikon:20140222101313j:plain:w350

2013年12月末をもって、はてなを卒業しました。また、合わせて結婚生活からも卒業しました。

金曜日は、はてなの人たち有志が慰労会を開いてくれました。

はてなではいつもホストの役目で誰かを見送る立場だったので、自分がパーティの主賓なのが不思議な感じでした。四条御幸町のカフェは貸し切りで、ドアをあけると懐かしい顔が迎えてくれました。

幹事の労をひきうけてくれたid:chira_rhythm55の司会でパーティは始まり、id:jkondoが乾杯の挨拶と音頭をとって、id:nmyが作った342枚の写真からなる思い出のスライドショーを眺めながら、皆で呑みました。京都リサーチパークの4平米のブースで始めた2001年の創業期、東京へ移動しメンバーが増えた2004年、アメリカへ渡った2006年、京都に戻った2008年。大画面には懐かしいメンバーの姿やしなもんが映し出され、ネット上でユーザーさんを巻き込んで盛り上がった出産シーンまであり、はてなと私の日々が凝縮されていました。

振り返れば、2001年5月に結婚をした私たち夫婦は、お金も何もなく、jkondoの頭にあった「はてな」のアイデアだけが未来への切符として私たちの手の中にありました。2ヶ月後にサービスを開始し、思うようにヒットせずに受託開発を始め、幸いにアンテナとダイアリーが注目を集め、東京へ移って仲間が増えて、アメリカに移住し京都へ戻り、気付けば此処にいました。息つく間のない13年間でした。

慰労会で、id:chris4403から「思い出に残ったことは何ですか?」と質問され、とても迷ったことですが、「東京とアメリカに移住したときです」と答えました。そんな単純なものではないけど、やっぱり凄い出来事でした。また「いちばん辛かったことは?」なんてこともたずねられましたが、よく考えれば辛かったことと楽しかったことは表裏一体でした。

創業から共に過ごしたid:onishiくんがスピーチで「reikonとぼくは戦友のようなものだと思ってる。圧倒的な輝きで前を走るjkondoに付いていくために必死で二人で追いかけ続けた」と言ってくれて、本当にそうだったなあとしみじみ思いました。

たくさんの出逢いと別れがありました。偶然は必然だと今でも思います。世間知らずだった私たちですが、jkondoの類希な発想力と意志力と行動力と、何よりも周囲の人たちの支えによってはてなが育っていきました。

こうして、はてなという温かで住み慣れた場所を離れますが、私なりに役目は果たせたのかな、と思います。

はてなをやめた人は、たいてい「はてなを退職しました」というエントリーを書きますが、私はあえて「卒業」という言葉を使おうと思います。はてなを仕事の場として思ったことはなかった。私を育ててくれた場所でした。そして、卒業生なら、また母校に顔を出す事にできます。

それにしても、年末ではてなを離れて、距離のあいたところから眺めていますが、はてなほど面白くて居心地のよいところはないなあ、としみじみ思っています。だからこそ、やめた人たちが今でも集まればはてなの話題で盛り上がるのでしょう。

全ての物事は不変ではありません。だからこそ次の物語が生まれます。私は私の物語を、次の人生のステージで創り上げていきたいです。そして、はてなにはウェブ業界でもっと大きな存在感を放ってほしいし、多くの人に愛されるようになってほしい。何より中で働く人が、もっともっと輝いてほしい。そんなことを、慰労会でも話しました。

今は、私を創り上げてくれた全ての人たちに感謝しています。とりわけ、夢を追いかけて形にすること、自分にも他人にも嘘をつかずに生きることの大切さを教えてくれた近藤淳也という人と、惜しみない愛情とエールを与え続けてくれた近藤の両親に心から感謝しています。

そして、激動の日々を共にしてくれたはてなの仲間たち、変な会社の社長夫人を見守ってくれたはてなのユーザーさんたち、そしてここに至るまで、ずっと応援してくれた友人たち、苦しい時期に示唆を与えてくれた人生の先輩、今はもう逢えないけれど、かけがえのない時間をくれた大切な人にも感謝します。

今後は、引き続き京都に住みながら京都大学こころの未来研究センターの広報の仕事をがんばっていきます。どこかはてなのエンジニア達と通じる気質と雰囲気を持った、大学の研究者たちの活動を支援していけたら、と思います。

ちなみにこのブログは、jkondoより「はてな最古のブログユーザーなのでぜひ継続してほしい」という要請がありましたので(笑)引き続き、とりとめのない日常を綴っていきたいと思います。よかったら新しい私の暮らしをブログを通してご覧ください。

ありがとうございました。