無題

立春が間近にせまる。あたたかな日差しがカーテン越しにさしこんできた。カーペットに三角座りして、しばらくお日様の毛布に包まれて蓄電した。さきほどネットを経由してコンビニで受け取ってきた『新潮1月号』をめくる。お目当ては森田真生さんの『計算と情緒』。書き出しの文章で、もう森田さんの澄んだ世界が始まって、私の脳の中までが彼のみずみずしい感覚(これこそ情緒かしら)で満たされた。
読み始めるのが遅くてタイムリミット。3ページ目が終わるところで出かける時間になってしまった。土曜日だけど今日はセンターでセミナーが催される。『為末大×下條信輔対談』。昨日は自転車を駐輪場に置いたまま街に出かけたので、家からは徒歩で向かう。日差しがあたたかいおかげで、いつもより体の力がゆるんでいることが分かる。冬のあいだ、ずっと体の肩あたりから足先に一本の針金が通っているような緊張を感じて過ごしている。その感覚は、2006年から一戸建ての家に住み始めてからだ。生まれてから一度も一戸建ての家に住んだことがなかった。アメリカに移住したとき、初めて一戸建ての家に住んだ。南側に小さな林があって、夏は涼しく快適だったが、冬場にまったく日差しが家に入らず、おまけにセントラルヒーティングが効かずにとても寒かった。その冬はひたすらリビングのソファに毛布を持ち込み、しなもんを抱えて過ごした。2008年に京都に戻ったとき、先に帰国した夫が見つけたのは、出町柳から徒歩5分の住宅街にある一戸建てだった。アメリカ帰りにうってつけの広い庭がある築20年の家。3月に帰国して入居したとき、京都の底冷えってこういうものだったのかと体感した。マンションとは明らかに違う冷気を味わって、春の訪れを待ち望んだ。
以来、冬は体の芯に常に力が入ってしまい、早くゆるゆると心身をゆるめられる春が来ないかなあと待ち望んできた。あともう少しだ。ヒールをこつこつといわせながら吉田市場の横の路地を通りぬけ、好きな煉瓦の建物に目をやってから、センターに入った。
センター長室にはすでにゲストの入来先生が来ていて、なごやかに話をしている。続いて下條先生がやってきた。昼食会場にはすでに為末さんが到着して待ってもらっている、とセンター長秘書のとみーちゃんが慌てて駆け込んできた。静かだった空間がどんどん賑やかになってきた。昼食会場の会議室にコーヒーを運ぶと、さっそく心理学用語が飛び交っていた。下條先生のキレのいいトークが聞こえてくる。

つづく

ウェブに住む人たちは、死ぬ間際も画面に向かってつぶやき続けるのだろうか

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2週間近く前にちらちゃんからもらった花がまだ咲いている。朽ちる直前の花の持つ妖気を感じる。

24時間、自分の意志のままに行動していると、どうしてもブログを書く意欲が減退する。

けれど、このブログでないと私の近況や想いを届けられない相手がいる。その対象のひとつは、ウェブのみでつながっている人。勿論読んでもらえているかは定かではないが。

彼らはあなたの人生にとって必要のないものですよ、と何処かで誰かがつぶやく。いいえ、そうではないのです。彼らがウェブに存在するかぎり、彼らとつながり続けるべきだし、断ち切ることはできないのです、と私は答える。本当にそうですか?と声がする。分からない。でもまだつながっていたい。

昔は、直接のやりとりや人を介した伝聞だけが誰かとつながる手段だった。そのほうがどれだけ楽だったことだろう。

でも今はちがう。ウェブという曇りガラスの向こうにいる相手の存在を無いものにはできない。電波にさえ乗ればテキストや画像により形成された相手の「存在」にふれてしまえるから。あるいはこちら側から自分の動向を発信することで「想い」を届けられる可能性がある。そのかすかな希望と可能性は、時に酷な状況を生み出す。たとえばもう忘れたいと思っても画面から存在が漏れ出るとき。たとえば相手が(もしくは自分が)ウェブから不在になったとき。

ウェブ時代の人たちは、手応えのない人間関係のなかで生きている。コンテンツ化された人の動向をうかがい、自分の動向をコンテンツとして提供する。直接性のないコミュニケーション。流れていく時間と情報の波にただよう、対象性と主体性の薄いつぶやき。満たされているようで常に満たされず、さらにウェブにとりすがる。

ウェブはリアルを補完するもの。そう割り切ってしまえば良いのだろうが、そうではないことをもう知ってしまった人たちがいる(私を含めて)。彼らの人生は、これからどんな方向に向かっていくのか。年老いて、死がせまったときも、その間際まで画面に向かってつぶやき続けるのだろうか。

「幸福というのは小さな歓びの積み重ね」〜 ヘレン・ケラー『私の宗教』より 〜

私の宗教: ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る 《決定版》
 鎌田教授が序文を書いた新刊書籍がデスクに置かれていました。ヘレン・ケラーが1927年に執筆した著書『My Religion』の翻訳本『私の宗教: ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る 《決定版》』です。

 ヘレン・ケラーといえば、目が見えず耳が聞けず言葉が話せず、の三重苦を負いながらも類いまれな才智と努力で社会活動家になり、多くの影響を与えた人として知られています。私も子どもの頃に伝記を読んで感動しました。

 信仰心の厚かったヘレン・ケラーは、スウェーデンの神秘思想家であるスウェーデンボルグを信奉していました。結晶学などで業績を残した科学者のスウェーデンボルグは、生涯後半で神秘体験をし霊性世界を見たとして、数多くの霊性に関する著書を残しています。その思想が極端すぎて危険だとして批判も多かったようですが、既に自己の見えない眼で様々な事象を見つめていたヘレン・ケラーにとっては、キリスト教と聖書を純化し、降りてきた精霊と対話し、生きる真理を明確に言葉に残したスウェーデンボルグが自身のメンターとなったことは自然だったのかもしれません。

 書籍のなかで特に印象に残ったのは、スウェーデンボルグの教えをヘレン・ケラーが綴った後半の部分にある「歓びこそが生命」という章でした。「幸福というのは小さな歓びの積み重ね」というシンプルなテーマですが、社会で働く私たちがどうすれば日常で幸せを感じることができるか、ヒントをくれる内容となっていました。

精神的な能力や肉体的な欲求には、みなそれぞれの歓びというものがあります。それらは回復と強化の手段なのです。肉体的なものであれ精神的なものであれ人間が本来もっている能力はいずれも、その能力に見合った満足のいく仕事を選んで活用すべきです。とかく人は、霊的な歓びを得るためには自然的な歓びを捨てなければならないと考えがちですが、その必要はありません。むしろ逆に、内的な生を高めていくにしたがって、自然的な歓びをも、よりじっくりと楽しむようになるのです。親しい友人から贈られた一房のブドウはなんとすばらしいことでしょう。美と色彩と甘い香りに包まれ、愛と想像力と詩情に匂い立っています!

 自分は快楽を薦めている訳ではない、とあらかじめ注釈したうえで、ヘレン・ケラーは、自然的、物質的な歓びを感じてこそ、生きる力やモチベーションが沸き、他人への愛や奉仕に力を注げるようになるのだ、としています。ただストイックに善行をおこなおうと思っても無理がありますよね。日々のささいな出来事をも歓べる気持ちがあれば、より高みへ自分を持っていくことができる、ということなのでしょう。

歓びというものは、成長し、自己を陶冶(とうや)し、気高い素質を獲得するうえで不可欠のものである、という感覚が思慮深い人たちのあいだに育ちつつあります。知ることの歓び以外に、子どもたちを勉強へ誘いこむものがあるでしょうか?味覚の歓びがあってこそ、身体は食べものを咀嚼できるのではないでしょうか?多少とも考える心があれば、自分が歓べる考えを選んで、そのほかの考えは顧みないのではないでしょうか?(略)もし、新しい真理を理解することや、人々に新しい奉仕を提供することに歓びを感じるのでなければ、なぜ科学者はあれほどまでに精神的苦痛やうんざりする研究に耐えていられるのでしょうか?

 日本人的な精神ではなかなか難しいことかもしれませんが、やはり「楽しんでなんぼ」ということです。押さえつけられて生きてきた人間には、なぜ自分がこの仕事に就いているのか、なぜ今これをやらなければならないのか、徐々に分からなくなってしまい、歓びどころか被害者意識すら生じさせてしまいがちです。自分の人生は、自分が幸せになるためにあるものであって、人や社会の犠牲になるものではない。だとしたら、常に歓びを感じることを意識し、その歓びを行動原理にすることはとても大切なことなのだと思います。

たとえ一日に五分であっても、きれいな花や雲や星を探すとか、詩の一節を暗唱するとか、仕事に飽きた人の心を盛りあげるとか、何か特別な歓びのためにだれもが時間をさくべきであることは疑いを容れません。美や歓びを感じて微笑を交わすことをいつもあとまわしにし、うんざりするような仕事や人間関係にしがみついているだけなら、自分をへとへとに疲れさせてしまうような勤勉さがいったいなんの役に立つというのでしょうか?(略)地上の美を愛してこそ、日の出や星たちの輝きを切望する資格があるのです。

 感性や好奇心を大切にして、何かを美しいと思う気持ちや、誰かのために何かをする歓びを忘れずに生きられたら、きっと毎日は愉しくなる。そんなシンプルなことをヘレン・ケラーはスウェーデンボルグの難解な(といわれる)教えを紐解き、私たちに教えてくれています。

 興味のある方は、ぜひ実際に本を手にとってお読みください。

私の宗教: ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る 《決定版》