ブログを書く自分から解放されて

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文章を読んだり書いたりするのが好きで、ブログが重要な自己表現手段のひとつだと思ってきた。しかしこのところ意外とそうではない気がしてきた。いまこのときを充足して過ごせたら、特に言葉に残さずともよいではないかと思えてきた。

土曜日に大阪で文楽を鑑賞し、黒門市場で喧噪に身をうずめて歩いた。日曜日に初釜茶会で師匠のもと一日じゅう立ち働いた。月曜日に息子と自転車で京都駅から下京、中京、そして御所をサイクリングした。

それらをブログに書き残そうという気持ちが起きなかった。なぜ?

どうやら無理して書くのに疲れたようだ。年が明けて自分がどんどん解放されていくのを感じており、そうなると「書かないほうがラクな自分」に薄々気付いてきたのだ。

画面に向かうたび、うまく言葉に出来ないもどかしさを感じてきた。上手な文章のブログを読むたびに、自分にはこんな表現できないと気持ちが沈んだ。それでも、☆をもらったりブックマークやいいね!をもらえて、それを見返すことで充足感を得てきた。また次に書けば満たされる、満たされたい。だから更新しなくては。さて何を、どう書こう。

そこからもう「どいてしまったろ」と思うようになったのだ。

書かなくても、読んでもらわなくても、十分な自分になったともいえる。

昔の人はみんなブログを書かないし、茶人も書かない。書くとしたら相手がはっきり決まった手紙や歌やおしながきや芳名帳程度だ。ブログは書かない。多くの人は直接人と会って言葉を交わしあって一日を終える。寒空の下、サイクリングして家に帰ってビールを飲んでお風呂に入って、枕元の日記をつけたら夢の中だ。

ブログを書くのを休んで禁断症状が出た、などとのたまって舌の根が乾かぬうちにこの文章。いったいどういうことやねん、と叱られそうだけど、実際にそうなのだから仕方がない。自分を赤裸々に表現するのが信条でやってきたので、こんな思いも打ち明けないと。

そう言いつつ、ここに書いているのでわけが分からないのではあるけれど、今後、ブログとの付き合い方が変わってくるんだろうなあ、という予感がしている。

少しブログから解放されつつある自分を感じている。そんな変化にとまどう2014年の冬です。

河合隼雄さんと「物語」

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河合隼雄さんの著書や研究内容を全て網羅したわけではなく、きわめてミーハーな部分で知っていただけなのだけど、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)』や『影の現象学 (講談社学術文庫)』など、印象に残る著作から生きるヒントをもらっていた。心理学に興味を持ったこともあったけど、学術的にというよりは自分の「こころ」の扱いに困り、何かにすがりたくて心理学やカウンセリングというキーワードに反応していた時期があった。

こころの未来研究センターから広報の誘いを受けたとき、ウェブサイトを見て河合俊雄先生の名前を発見した。ああ、こんなところで息子さんが研究をされているんだと驚き、勝手に縁を感じた。センターで扱う研究テーマは宗教、民俗、幸福感、死生観、発達障害など、どれも気になるものだった。大学広報は私には難しいと感じながらも、オファーを受けるしかないと思って契約した。

あのとき、内田さんから誘われてセンターで働かなかったら、今の私はないと思う。それほど自分の人生観に影響を与えた場所であり、今も与え続けてくれている。

河合隼雄さんが大切にしていた「物語」という言葉をしみじみと感じている。物語。誰もが持つ物語。「心理療法とは、クライエントが自らの物語″をつくることを助けることに他ならない」といい、「日本文学史における物語が投げかける問題を追究することで日本人の心性にせまっていく」と語っていた。

最近、人の「物語」の価値について考えている。インターネットで注目を集めるニュースやブログも、多くが誰かの「物語」を扱ったものだ。皆、自分や他人の物語を意識し、それを知りたいと思い、それについて語りたいと思っている。

人には、その人の人生の物語がある。多くの人が自分の物語の価値に気付いていないかもしれない。けれど、人が生きてきた軌跡が物語であり、それはその人にしか作り上げられない、この時空にただ一つのものだとすれば、物語を編んだだけで人生に価値はある。そう思えば、人生はとても面白く、自分自身によって豊かにできるものだと考えられる。

私は、私が作る物語を多くの人に知ってもらいたいし、触れてもらいたい。また、物語に登場する人物と深く関わり合いたい。

「生きることは物語をつくること」、という河合さんの言葉をかりるなら、自分が作り上げてきた物語をどんなふうに人に伝え、その価値を人に提供できるかを考えている。

思うようにいかない人生だけど、私は私の物語の舞台である人生を愛している。失ってしまった愛も、掴み取れずに逃してしまった人との関係も、挫折も迷いも、私の物語の一片だと思えば愛おしい。明日からも、私は私の物語を紡ぐ為に、誰かにこの小さな物語を提供するために、この街で生きていく。

〈河合隼雄物語賞・学芸賞〉記念講演会 | イベント・書店情報 | 新潮社

お正月日記

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吉田神社のだるまみくじ。大きなだるまの中にコロコロと入っていて可愛らしかったので、引いてみた。おみくじを引いたのは、生涯で二度目。結果は末吉でした。なんとなく自分の現状にフィットしてるようで妙に納得。

願望 : 時期を待つこと。
待ち人 : 来たらず。
失物 : 出ず。
縁談 : 時間をかけるように。
売買 : 損もあり。
其の他 : 口はわざわいのもと。

とても教訓的だ。簡単にはいかぬが、心がけ次第でそこそこ幸せになれるぞという感じ。でもそれぐらいが良い。謙虚さを忘れずコツコツと。


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3日、ゆきちゃん宅に招かれて新年会へ。お土産の日本酒とバゲットを買いに河原町に出たらそれはそれは凄い人出。そうか、街のお正月ってこういうものだったんだ。四条から寺町を北に折れて人ごみに身を預けて歩いていると、幸田文の『流れる』という小説のタイトルが頭をよぎった。流れる、という言葉っていい。『流される』だとよくない。流れるという言葉、主体的ではあるけど、それだけでもない。運命に身を任せつつみずから人生を生きている感じ。自覚的だ。寺町をぬけて御池に出たところにあるコーヒーショップで休憩をした。満席でカウンターにも人が並んでいるのに、店員はたったひとりでオーダーをさばいていた。洗い場には汚れたコーヒーカップやグラスが山積みになっていた。店員の女の子は不機嫌そうだった。お正月にふさわしくない無愛想だった。そりゃそうだ。こんな多忙なのにたったひとりで働かされるなんて理不尽きわまりない。でも誰も彼女に声をかけなかった。手伝う人もいなかった(当たり前だけど)。都会のお正月だなあ、と思いながら窓越しの京都市役所を眺めて紅茶を飲んだ。誰もいない京都市役所は、冬の夕暮れに凛とした佇まいを見せていた。ネオバロック様式をとりいれたという古い建物と前の広場を眺めていると、ヨーロッパに旅をしているような気分になる。だから市役所前を通ると嬉しくなる。ゆきちゃんの家では、真っ白のスープが美味しい博多風の鶏鍋や、一ヶ月かけて仕込んだという金沢名物のかぶら寿司など、リノさんが腕によりをかけて作った料理を堪能した。目の前には着物を着たフランス人男性と日本人女性の上品なカップルがいた。隣には、リノさんと25年来の仲だという男性がいた。私の知らない人生を生きてきた人たちが、時にフランス語をまじえながら会話するのを聞くのは、不思議な愉しさがあった。ゆきちゃんは、着物姿で甲斐甲斐しく私たちのお世話をしてくれた。コーヒーショップの女性とは真反対のおもてなしだった。


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4日、堺に帰省。昼に中学時代の同級生の家を訪問。私から年末にコンタクトを取って13年ぶりの再会が実った。昨年、20代の頃に自転車関係の仕事でお世話になった人が亡くなった。ここ数年、闘病していたことを知らず、見舞いにも葬儀にも行けなかった。ネットの情報から訃報を知ったとき、呆然となった。年末に東京出張したとき、ご家族に連絡を取り四ツ谷の家に焼香にお邪魔した。仏壇には懐かしい顔が笑っていた。自分の不義理が悔しくて、でもなんとか年内にお別れできたことでホッとして、複雑な思いに満たされて帰路についた。夕暮れの新宿の空が美しかった。だから親しかった人、お世話になった人には生きているうちに再会しておこうと心に決めた。同級生夫婦は大歓迎してくれた。歳月をとびこえて中学時代の話題で盛り上がった。来年もここで集まり、少しずつ人を増やしていこう、と約束をした。フェイスブックやブログに写真をアップして、人を募ろう、と計画を立てた。時間ぐすりというけれど、時を経たからこそ分かり合える、ゆるし合える関係がある。同じ時代、同じ時間を過ごした者どうしが何年ものブランクを超えたとき、新しい関係が生まれる。そんなのって素敵だ。いつかまた出逢いたい人がいる。今はまだ笑って逢えなくても、今日、同級生の笑顔に救われたように、いつか微笑みあって再会を悦びたい。