
今日はとても印象に残る言葉に出会いました。
“Follow your bliss and the universe will open doors for you where there were only walls”
(あなたの至福を追求しなさい。そうすれば宇宙はあなたの前に壁しかなかったところにドアを開きます)。
神話学者のJoseph Campbell の言葉だそうです。
blissの意味の「至福」は、精神的な極上の幸福。快楽ではなく心が平安な状態で自分が幸せに感じることを追求しなさい、ということのようです。
今の私にとってのbliss は、子供や大切な人達との会話、大学での知的好奇心を満たす授業、しなもんとの静かな時間、でしょうか。
とりわけ大学での授業と読書は、今までの自分では得られなかったblissを得ています。新しく物事を知る、知識を得る、先人の知恵や見識をもらう、他の人の意見を聞く、深く考える。それらの作業から、社会を見る新しい目を養っている気がします。
これからも、私にとってのblissを追い求めてゆきたいです。
小さな旅を重ねるように暮らしたい
人だけではない。風景や、季節や、言葉や、想いなど、
さまざまなものと出逢って、そして別れる(分かれる)。
あとには「感じたこと」だけが残る。
出逢いと別れ(分かれ)のない人生など、送りたくない。
何かを感じない人生など、送りたくない。
暮らしという、小さな旅を繰り返しながら、
たくさんの何かを感じて、感じて、感じて、
私という「何者か」を作り上げてゆきたい。
小さな男の子は、その目撃者であり、同伴者である。
彼が「何者か」になる過程の目撃者でかつ同伴者は、私である。
いっしょに旅を繰り返していこう。
かならずおとずれるであろう、別れの(分かれの)ときまで。
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週末。石川に住む親友が、二人の子供をつれてやってきた。

出町柳に住んでいるなら、鴨川へ連れて行かない手はない。
あっというまに意気投合した子供たち。
川べりを駈ける、駈ける。

小学生のおにいちゃんに感化され、初めて亀石を渡りきった息子。
兄弟はいなくても、身近なお手本はたくさんいる。
私と息子は、社会というコミュニティに育てられている。

達成感に包まれた表情をしている。
また少し、私の手から離れるときが近付いた。

日曜日は、雨のなか大山崎山荘美術館へ出かけた。
息を切らせて坂をのぼってたどりついた山荘のバルコニーからの風景。
鮮やかすぎる新緑に、目がくらみそうだった。

一瞬だけ雨があがったそのすきに、庭園を散策。
退屈だった館内での厳粛な空気から解放されて、こどもが走る。

甘えたで、外出するときは私の手を数秒も離そうとしないのに、
庭園の美しさと開放感に突き動かされたのか、姿が見えなくなるほど
遠く離れたところまで駆け巡る。

童話に出てくるような幻想的な庭にたたずむ巨大なウサギ。
子供にだけは、その声が聞こえていそうだ。

一本だけ、満開の八重桜に遭遇。
うつろう美がこぼれ落ちそうだ。
何を思って眺めていたの?
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日曜日は、冷たい雨がそぼふっていたので、出かけるのをやめようかと躊躇していた。
けれども、なぜか無性にこの場所に来たくなって、後先を考えずに息子の手をとって家を出た。
そして出逢えた美しい風景。見知らぬ土地で交わす息子との会話も新鮮で楽しく、来てよかったと思えた。
これからも、どんな小さなことでも、自分の衝動や直感には、できるかぎり従っていこう。
小さな旅を楽しみ続けるためにも。
怒りは小出しにしたほうがいい
3才半のひとり息子と暮らしています。育児中の親なら誰でも「子供が言うことを聞かない、こちらの思う通りに行動しない」と感じているはずです。我が家もまったく同じです。
これから書く「靴の履き脱ぎ」に関する今日の出来事は、客観的にみれば本当にたいしたことのない話なのですが、当事者にとっては、そう言ってられない切実な内容なのです。同じような思いをされているお父さんお母さんもいれば、うまくやっておられる人もいると思います。
今朝、保育園に出かけるとき、いっこうに自分で靴を履かない息子。待てどくらせど、靴の前であれやこれやと他のことに気持ちをとられて靴に手をかけようとしない。それを眺めて待ちながら、どんどんイライラが自分の中で増殖していき、果ては怒りがこみあげ、なんともいえない気分の悪さを感じました。
それでもその時は、子供に「怒りをぶつけずに済んだ」のですが、どうしてもその後、自転車にのって登園する間、子供と話す気持ちになれませんでした。子供にもそれが伝わっていたようで、非常に悪い雰囲気で登園しました。
それに加えて、保育園の中に入るときに、今度は靴をまったく脱ごうとせず、玄関でひたすらモタモタ...。おそらく靴を脱いで中に入ったら母親が荷物を置いてすぐに保育園から出ていってしまう、別れるのがいやだ、という思いがあったのでしょう。しかしこちらとしては、「靴をぬぐぐらい、どうしてすぐにできないのだろう」と、再び心に暗雲がたちこめて...。
しかしその気持ちを言葉に表現する気になれず、思わず子供を置いて「先にいってるよ」とスタスタと部屋に入ってしまいました。母親に置き去りにされ、泣いて追いかけてくる子供。心を開けず、態度を硬化させる私。タイミングよく、優しい男の先生が息子をひきとってくれて、園を出ることができました。
その後は、どうも気持ちの悪い後味が残り、今に至っています。
息子の靴の履き脱ぎをめぐって感じた自分の気持ちや、とった態度について後から考えてみました。
結局、私は「その場で、注意したいことについて、明快に注意する」ということができていなかったんですね。
育児における私の悪いくせは、怒りをためこんで自分のなかで自家中毒を起こしてしまうことのようです。靴をはくのが遅いと自分が感じたなら、その場で「保育園に遅れるから早くはいて!」とすぐに言えば良かったし、ぬぐのが遅いと思ったときも同様でした。
しかしその場では「子供がちゃんと自分でやりきるのを待ったほうがいいんじゃないか」「自分の”遅いなあ”と感じる気持ちは自分の短気によるものではないか」とあれこれ考えてしまい、自己セーブを働かせ、その果てにストレスをためてしまい、結果的に場をこじらせてしまっているのだと思います。
最後まで忍耐できて、ゆっくりと行動する子供が全ての行為を完了するまで心穏やかに見守れて、うまくいけば良いですが、そうではないのですから、なんとかしなくてはなりません。
ここまで書いて導きだした自分なりの結論は、
- 小さなストレスが、やがて大きなストレスとなって自分を蝕む
- ためこみすぎたストレスは、その後の自分の態度を酷くする
- いったん自分の精神状態が悪化すると回復しづらい
- (短期的ではあるけど)子供との関係が悪化して修復が難しくなる
- そうならないために、気持ちを早めに外に出す
- 外に出すときはカラッと、後腐れのない形で
...というものでした。
このエントリーは、今朝の私のもやもやをなんとか解消するために、書いたものです。文章化すると、気持ちがスッキリしますし、いつか振り返って反省することもできますし。情けないエントリーだなあと我ながら思うのですが、15年後ぐらいに息子が読んでくれたら、少しは「お母さんも悩んでたんだな」と思ってくれるかな。
もっともっと、二度揚げの唐揚げのように、カラッと気持ちのよい態度で子供と接したいものです。精進します。
幸せはいつもちょっと先にある
たとえばミーティングで今後のプランについて話し合ったとき、非常に面白くて将来うまくいきそうな案が出てきて、場が一気に盛り上がるときってありますよね。
色んな人からその案に対するさらなる案がとびだしてワクワク感が高まったときの雰囲気のよさ!
「これは絶対にうまくいく」「よしこの後すぐに作業を始めよう」などと思って意気揚々とミーティングの席を立ちます。
しかし実際に席にもどって普段の生活に戻ってみると、「あのときのミーティング、なんであんなに盛り上がったんだろう」といった尻つぼみな状況になって、たいしたことにならなかったこと、ありませんか?
その理由は、人は、実際に行動するよりも、出来事を想像、妄想しているときのほうが「楽しい」し、未来の新しいことは「うまくいく」と考えがちだからだそうです。
この本は、人間が自分の未来を想像したり、未来の自分の姿や出来事がどうなるかを予測するしくみと精度を、あらゆる実験結果を引き合いに出しながら解説した「期待と妄想の心理学」です。
人は、未来を空想するとき、挫折した自分や失敗した自分より、やりとげた自分や成功した自分を思い浮かべる傾向があったり、逆に大きな病気になったり過酷な出来事に遭遇したときには、実際以上の大きさの苦しみや悲しみを味わうと見積もるそうです。この本では、それらの例を膨大な研究事例と毒とユーモアを含んだ考察で紹介しています。
いかに人が未来を誤って予測しやすいか、その弱点の理由はなぜか、ということについて本の大半が占められているおかげで、自己啓発書のように「だからどうすればよいか」という部分は、ごくごくわずかです。なので、少し肩すかしな点はありましたが、「これだけ事例を教えてやったのだから、あとは自分で結論を導きだしなさい」ということなのかもしれません。
私がこの本から学んだことは、「自分が想像する未来はまったくあてにならない」ということと、「他人と自分の思考パターンと行動パターンは、自分が思っているほど違わない」こと、そして「自分がこれからしようとしていることがどういう方向に進むかは、同じようなことをすでに経験した人を探してその人から経験談を聞くことである程度予測がつく」というものでした。
つまり自分の未来について、余計な想像や妄想をしすぎないのが良い、ということですね。とりわけ、不安や心配をしても仕方がないし、過度に楽観的になるのもよくない、ということだと思います。
そして、ちょっと先の幸せを得たかったら、まず「なりたい自分」をイメージし、それにあてはまる身近な先人を探し出し、その人からの経験談や知恵を素直に頂戴し吸収し、それをお手本にして自分なりに行動していくことなのでしょう。
自分を特別視することは悪くないけど、自分はほとんどフツーなんだと認識して、他者より学ぶことは大事なんですね!
東京からの客人 / プリプリ

日曜日は、東京から来られた方とまる一日一緒に過ごしました。
天気は快晴、桜は咲きほころび、風は心地よく、すばらしいコンディション。
鴨川を散歩し、大文字山をのぼり、哲学の道ぞいで開かれた知人のパーティに参加し、京都の春を満喫しました。
とりわけ楽しかったのが、大文字山でした。
昨年は、抱っこやおんぶでお荷物だった息子が、今年はなんと全て自力でのぼりきりました。
まだ息子は3才8ヶ月ですが、およそ100mごとに大好物の果汁グミを一粒ずつ与えて、まさに「馬の鼻先に人参」で、なんとか歩かせることに成功。
当初は「ぜんぶ登りきったら果汁グミ一袋あげる」と言ってたのですが、これではうまくいかないと序盤で悟り、「あそこの木まで歩いたらグミ一粒あげる」という小分け作戦へと変更。それが功を奏して登りきったのでした。
小さな子供と辛抱強くつきあって、一緒に登ってくれた客人にも大感謝。
これまでの私なら「子供がいるし大変だから京都案内なんて無理」と尻込みしていたはずですが、最近は、相手の厚意と協力を得ながら、万全でなくてもせいいっぱいおつきあいしよう、というスタンスで人づきあいを積極的にしています。
人に頼る、人の思いやりを信じることで、ぱあっと世界が開けてきたように思います。今日はまさにそれを体感できた一日でした。
結局、自分が元気になれる最高のサプリメントは、人と同じ時間を分かち合うこと、愛情や厚意を人に与え与えられること、人と語り合うこと分かり合うこと、なんですね。
それに気付いて行動に移し始めたことで、どんどん人との輪や出会いの機会が広がっています。
私と一緒にいてくれる人たちに、色んな形で報いたり、楽しい話題を提供できるように、明日からもがんばりたいな、とあらためて思った週末でした。
夜はテレビで、再結成したプリンセスプリンセスが出る「情熱大陸」を見ました。
40代後半にさしかかったメンバー達が震災チャリティライブを開く為に再結成し、ライブ出演に至るまでの奮闘にせまった内容でした。
一時代を築いたあの伝説のバンドのメンバーも、10数年を経た今は、それぞれの道で専業主婦をしていたりステージから離れた仕事についていたり...。
育児に追われながら、プレッシャーにさいなまれながら、それでも再びステージに立つために、人前でパフォーマンスをするために猛烈な努力をしていました。
最後のライブシーンを見て、思わず涙してしまいました。
単なる感動で泣いたのではありません。とても切なく、やるせない思いにかられたから泣いたのです。
子供を持った女性の、髪をふりみだして全力疾走して、第一線に戻るために奮闘する様子が、あまりに大変そうだったこと。
世の”がんばる母親”って、自分以外の荷物を背負いながら全力疾走して、へとへとになりながら、それでも自分が輝くために歯をくいしばるんですね。
程度の差はあれど、やっぱり女って、特に子供を持ってしまった女って、それだけで相当のハンディがあるんだということを実感しました。
彼女たちのがんばりや輝きに励まされると共に、もっともっと女が普通に自分のしたいことに専念できるようになるにはどうしたらいいのだろう、というようなことを考えさせられました。
社会を変える力は私にはないけれど、何か考え、同じようなことを思う人と共感しあって、できることはないものか、と思いました。
そんなこんなで夜更かししてしまった週末の終わりです。
それにしたって、良い週末でした。
年度はじまりに東京へ
3月最終日から4月2日にかけて、ひとりで関東方面を旅してきました。
04年から06年まで住んでいた、懐かしい東京。訪れるのは、およそ2年ぶりです。
旅の目的は、大切な人に会って近況報告をすること。春から就職、進級、進学する甥っ子たちのお祝いを姉に渡すこと。そして春から新しいことを始めるにあたり、はてなの広報窓口業務を東京スタッフに引き継ぐために打ち合わせをおこなうこと。
今まで小さな子供がいるから、と躊躇していた遠征ですが、夫の両親の協力を得て実現できました。

かつてはてなの初代東京オフィスがあった場所にも寄りました。新しいビルができるようで、工事中でした。

渋谷から代官山に行くときに頻繁に乗った東急トランセというバスの車窓より。あの頃もよく、頭上にそびえるセルリアンホテルをしげしげと見上げていたっけ。

アメリカに行く直前まで住んでいた深沢ハウスに隣接する駒沢公園を散歩しました。日曜だったので、たくさんの人が運動に励んでいました。変わらない光景。今回のメインテーマであった、大切な人との再会ならびに近況報告もじゅうぶんにできました。

沖縄音楽にのめりこんでいる姉がライブに出るというので、初めて茅ヶ崎にも行きました。レンタサイクルをかりて夕暮れの海岸を疾走しました。右奥に見えているのは富士山。

趣味で始めて7年後、人前で歌って演奏するまでになった姉(左手前)。母も南京玉すだれを老人ホームなどでパフォーマンスしているし、私はマイクを持って司会業復活するし、どうやら血筋みたいです。

そして最終日は、初めて現在のはてな東京オフィスに乗り込みました。
「えっ、今回が初めて?」と驚かれましたが、そうなんです。営業スタッフの活気が気持ちよくて、元気をもらいました。
4月から広報窓口の主な業務をid:kiyoheroに引き継ぐための打ち合わせも無事に終了。肩の荷がおりました。
広報からはなれる理由ですが、3月からすでに始めている司会とナレーションのレッスンを本格化させて、できるだけ早く復帰できるよう準備に励むためです。
また、大学の聴講生としての生活も9日よりスタートします。社会学を中心に週に4つの授業を京都大学文学部で受けます。
社会学にふれてみたいと思った理由と発端は、私が人生において直面してきた様々な悩みや問題が、実は個人的なものと言い切れない、現代社会の人々、とりわけ女性に共通しているものではないかと考えたところからです。
私や他の女性たちに共通するかもしれない問題が、どういった社会背景から生じてきているのか、それを取り扱う学問がありそうだ、いやあるんだ、ということに気付いたのがきっかけです。
学ぶことによって、私自身の悩みや問題を客観的に見つめられたら。そして、私と関わっている人たちとのつながりのなかで、私が得られるであろう知識や見地を少しでも生かすことができたら。
そんなことを願っています。
はてなで過ごした10年間は、変な会社とユニークなサービスを創ることに命をかける夫のもとで、得難い経験ができました。
今、スタッフ数は100人近くなりました。私の何倍も才能のある若い人たちが、はてなでの仕事を通してネットの未来をよくするために頑張っています。
そのおかげで、私も、新しいチャレンジができるようになりました。そのことに心から感謝しています。
年度はじまり。そのうえ、今日は春の嵐で、街も人もザワザワしていました。私もまだ、新しい生活に慣れずに心はざわついています。
しかし、本当に大切なのは、このザワザワが落ち着いたあと。毎日の地道な努力と小さな歩みをどれだけ辛抱強く続けられるか....。
安易な人との交流や、愉しみのための時間だけではなく、ひとりで考えたり、人や書物から学ぶ作業をする時間を確保すること。それが私の目下の課題です。
スマホを手に興味のまま情報を追ったり、人からのいいね!やスターを得て承認欲求を満たすためだけの時間をなるたけ減らさなければ。情けないけれど、実際そうなので、切実に思っているんです。
幸い、私の周りには、学生からベテランまで、はてな社内から旧知の友人、子供の保育園の父兄に至るまで、私が尊敬できる人が山ほどいます。
その人たちからたくさんアドバイスをもらいながら、自分を叱咤して前に進んでゆきたいです。
私の周りのすごい皆さんへ。ぜひこれからもたくさん助言や経験談を私にください。よろしくお願いします。
週末は桜が満開になりそう。
皆さんもよい春をお過ごしください。
コップの水の量
コップに水が半分入っていて「あと半分しかない」と悲観するか「まだ半分ある」と楽観するか...。
よくポジティブな人、ネガティブな人について語るときに使われるたとえ話。
私は折にふれて、頭のなかでこのたとえ話を思い出します。そして、「まだ半分ある!」と言い聞かせています(笑)。
結局、自分の境遇や、ふりかかった出来事について、どう感じるかは本当に自分次第なんですよね。
先日、会った友達が「幸せはなるんじゃない、感じるものなんだ」と言っていましたが、その通りです。
最近、いろんな人と話をする機会があります。
その人の仕事とか、生い立ちとか、今抱えている問題とか、楽しんでいることとか、色んな話を聞かせてもらいます。
どの人も一様に、ある部分では成功しているし、ある部分では苦労しています。
それぞれに違いはあるけど、客観的に見ていてそれほど「幸不幸」の違いはないように思います。
でも、自分の「幸」に満足していそうな人と、「不幸」のほうに焦点をあてて悲観している人と、人によって違うな〜と感じることは多いです。
目の前にある椅子だってコップだって、見る角度によってはスタイリッシュだし、角度によっては格好悪かったりします。
うちの犬のしなもん(ウェルシュコーギー)だって、短足小太りでぶさいく、ともいえるし、キュートでたまらない、ともいえます。飼い主にとっては後者です。
脳天気といわれてもいい。楽天家であったほうがいい。
どんな大変な境遇も出来事も、自分の「どう感じるか」で救われるなら、感じ方をどんどん変えていきたいです。
