巡礼

金曜日の夜中、窓をあけたらしんしんと雪が降っていた。しっとりと重みのある雪が直線的に空からおりてきて、いかにも適切な重なり方で庭の芝生に積もっていった。しんしんと、という表現がとてもしっくりくる降り方だった。少しずつ、確実に、世界が白くなっていくのをしばらく眺めていた。

朝起きたら、思っていたような銀世界ではなかった。気温が高かったのだろう。みぞれだか雨だか見分けがつかないものが降っていた。地面の雪はゆるいシャーベットのようでべっしょりと情けない風情だった。

昼、東京からやってきたゆかさんとみつきと息子のはるきくんを寺町二条のSinamoで迎え、ランチをとる。今年から新しい境遇になった私と会うために、東京から駆けつけてくれたゆかさんは、長身にスリムジーンズ、にび色の大きなピアスにロングネックレスと、あいかわらずスタイリッシュだった。スパークリングワインで乾杯し、ピザをつつき、店を出たあとは、みつきがはるきくんを連れて出かけてくれて、女二人でカフェコチでゆっくり話をした。

ゆかさんと別れたあと、夕方に息子を父親に預けて街へ出た。雪はもう雨に変わっていた。

いづみちゃんの花*花による新作お披露目ライブ。あまりに強い彼女の生命からのメッセージが伝わってきて、後半には自然に幾筋もの涙が流れていた。

良いかどうかとか、本物かどうかとか、手法がどうかとか、時代性がどうかとか、人は様々な評価軸をもって芸術を語るけれど、私にとっては些末なことだ。それ以前に評価する技量がない。ただ、体の奥底に戦慄が走るかどうか。彼女の歌は、ライブという言葉がふさわしすぎるほど、生きていることを実感させる歌だった。

ライブが終わったのが22時前で、うまちゃん夫妻と別れてライブハウスをあとにした。ひとり四条通りを堀川から東に歩き、高倉で南に下って鈴やのカウンターについた。

杉板を貼った壁、ステンレスの冷蔵庫、はるちゃんの涼しい笑顔、もんちゃんのまっすぐな瞳と無駄のない動きを眺めていたら、体のなかの芯がゆるゆるとほぐれてきた。閉店時間を過ぎてからも、もんちゃんと恋について話し込んだ。風変わりな冊子をもらった。ある人について書かれている冊子だった。死んだ人の遺した品のようだった。語られることも過去のことばかりだ。もんちゃんがその冊子をあげる、というか店に置いていても仕方がないのでもらってください、というのでバッグに入れてあけみさんのいるココボンに移動した。あけみさんにお願いして、完全に葬ってもらおうと思ったけれど、それはまだできなかった。

あけみさんの子どもの頃の夢は、金魚売りだそうだ。ひがな金魚を眺めて過ごしていたかったそうだ。「あけみさんにとっては、バーの客も金魚みたいなものでしょう」と言ったら苦笑していた。「紅の豚の、あの女の人にどこか似ているよ、れいこさんは」とあけみさんが言った。なぜかジーナさんがよく話題に出る。でももうポルコはいいかな。今はひとりお酒をのんで海を眺めていたい。

巡礼、という言葉がある。昨年は、村上春樹さんの作品でその言葉がクローズアップされた。師であり父を亡くした河合俊雄先生は父の死後、河合隼雄財団を創設するため生前に父と親交のあった人々をたずね歩いた。中沢新一さんは「僕にとって俊雄さんに会うことは、半分、隼雄さんに会うことでもあるんですよ」と俊雄先生に言ったそうだ。俊雄先生も同じだ、と言う。「父に近しい人をたずね歩いた日々が、僕にとっては巡礼だった」と振り返っていた。

思えば私も昨年の終わり以降、時間をかけて近しい人を訪ね歩いている。その目的は、表向きには報告であり、挨拶であり、意思表明であり、理解の求めであり、語らいであるが、その実は、やはり心を癒し鎮め、未来を生きるための儀式としての巡礼である。

この巡礼がいつ終わるのか。それは私にも分からない。死ぬまで続くのかもしれない。

心に残る冷たくかたい根雪が溶けるまで、まだ時間はかかるのだろう。けれど、多くの人の温かさとやさしさによって、確実に変化している。季節も、この私の心も。