連休三日目の午後、収穫したばかりの野菜を持ってゆきちゃんが、冷えたラムネを持ってみっちゃんが、それぞれ二人ずつ子どもを連れてうちにやってきた。
ラムネを飲みながら仮面ライダーのテレビを見る子どもたちを横目に、三人であれこれと話す。オンナとして、ヒトとして、ツマとして、ハハとして…チャンネルを切り替えつつ話す、聞く。
「いかにして水になるか、なの」。
ゆきちゃんが、言う。イライラせずに暮らすためのワークショップをこんどやるのだという。
いかにして、水になる、か。
ふうん、水に流すんじゃなくて、自分が水になるんだ。それってどういうことだろう。
子どもたちは庭でプールあそびして、祇園祭の支度があるからと三時には解散して、ゆきちゃんとみっちゃんが去ったあとも、ずっと「水になる」ことについて考えていた。
最近、とても嫌なことがあった。誰も悪く無いことだけど、毎日生きていれば何かしら出来事は起こるものだ。重力があるかぎりボールは落ちる。摩擦があるかぎりパンクする。祭りはおこなわれ、山は焼かれる。
それにしたって、嫌なものは嫌だ。そんな私も嫌だ。今の私をめぐるあれこれが嫌になる。日常の憂鬱だ。
水になるって、どういうことだろう。
まだ掴めないけれど、きっと何か今よりもラクになれるのだろう。
日曜日、和歌山の海にもぐって、魚や海藻たちの世界をさまよったとき、私は水の一部には、なった、気がする。
そこには空気もなく、音もなかった。欲も慈愛も憂鬱もなく、過去も未来もなかった。ただ、海があった。
海からずいぶん離れた現実世界で、どうしたら水になれるのだろうか。
あらゆるものが、揺れている。2013年、夏。