浮世と憂き世と能

f:id:reikon:20120916041023p:plain:w250:rightかねがね、浮世(うきよ)という言葉に違和感を感じていた。

「あの人は浮世ばなれしている」「ひととき浮世を忘れてすごす」...。そんな表現を使うたび、「あれ、浮世って”この世”のことで合ってたっけ」と用法に若干の不安をおぼえていた。

浮世というと、その字のごとくほわほわと浮かんだような場所で、そうなると今の自分が生きている現実=「この世」とは違うイメージのように思っていた。

どっちかというと、浮世のほうがあの世っぽいではないか。そうすると、浮世ばなれなんていう言葉を使うのはどうもしっくりこない。

そこでネットで調べてみたところ、

浮世の「うき(浮き)」は、「苦しい」「辛い(つらい)」を意味する「憂し」の連用形「憂き」が本来の形で、平安時代には「つらいことが多い世の中」をいった。
やがて、仏教思想が定着しその厭世観からこの世を「無常のもの」「仮の世」と考えるようになり、うき世も「はかない世の中」の意味になっていった。
「はかない世の中」を表すようになったため、漢語「浮世(ふせい)」を当てたほうがふさわしくなり、「憂き世」は「浮世」と表記するようになった。
語源由来辞典より)

ああ、なるほどそうか、と腑に落ちた。

「現実」とか「この世」というと、なんとなく自分が生きている”いま”がしっかりした堅固なもののような気になってしまう。だから「浮く」という字とフィットしていなかった。

でももともとは「生き辛い、大変な場所」=「憂き世」だったのだ。

必ずしも憂鬱なことだらけというわけではないが、「兎角この世は住みにくい」と漱石が言っていたくらい、やはり大変なのが現実生活だ。

私にだって、いろいろある。世を憂いたくなるような目にもしばしばあっている。

ポジティブさを全面に押し出しているような人も多いが、きっとどこかで大変な思いをしているだろう。大変さをポジティブに変換しているのかもしれない。

ああ、憂き世、憂き世。

ところで最近、すっかり「能」にはまっている。

今日は「三輪」という大和にちなんだ演目を観たが、人間の女に扮した三輪明神が人間の僧侶に救いを求めるために現世におりてきて神楽を舞うという、とてもロマンチックなものだった。

能を観ていると、実は何度か必ず睡魔に襲われ、うつらうつらする。その「うつらうつら」が余計に私を幽玄の世界に近づけるようで、時間がすすむにつれてまさに「浮世ばなれ」していく自分が感じられる。

そんなうつらうつらから、クライマックスの神楽の奏での明神の舞いと太鼓、笛、鼓、謡いが交差する迫力に圧倒され覚醒してゆく過程で、これまで体験したことのないような精神状態になる。一種のトランス状態なのかもしれない。その感覚がたまらなく、また次の演目を観に出かけたくなる。自転車で15分のところに能楽堂が(しかも観世と金剛のふたつも)あって、良かった...。

この世とあの世が交差する物語が、能楽堂という閉じられた独特の空間で演じられる。私にとって、ひととき「憂き世」を忘れさせてくれる場所、それが能なのだろう。

ちなみに浮世の言葉には、まだ変遷があって、

江戸時代に入ると、「はかない世の中であれば浮かれて暮らそう」という、現世を肯定した享楽的世間観が生まれ、男女の恋情や遊里で遊ぶことの意味となり、「浮世絵」や「浮世話」のように名詞の上に付いて、「当世の」「好色な」「現代風な」という意味を表すようになった。
語源由来辞典より)

なるほど。浮世を実感するには、もっと浮かれて暮らした方が良さそうだ。