嘘とスキャンダル

 耳の聴こえない音楽家が作曲家にお願いして自分名義の曲をつくってもらい、その曲が本人の素性と共に注目を集め、その後も数々の(ゴースト作曲家作の)話題曲を出して成功をおさめてしまった。そして作曲家と関係を悪化させて全てが暴かれてしまった。そんな出来事が世間を賑わしていることを知った。

 その人の謝罪文を読んで、胸が痛くなった。彼の愚かな行為は、馬鹿にされても責められても仕方がない。でも一方で、ここまで大きな事件にはならなくても、嘘によって自分が追いつめられた経験を持つ人は少なからずいるのではないだろうか。

 何度かそんな過去があるので、私には今回の事件の当事者を簡単に責められない。ひとつ間違えれば自分も同じ様な状況に巻き込まれる可能性だってあるのでは、と背筋を冷たくした。それは幼児虐待事件の話題にふれたときも同じように感じるし、多くのスキャンダラスな事件にふれたときも同じように思う。「自分も一歩間違えれば同じ」と。

 とりわけ嘘は、いつだってつける。虚栄心を満たしたいとき、相手を怒らせたくないとき、らくをしたいとき。すきをついて現れた悪魔の導きによって、嘘が口をついてしまう。そこから先、どう発展するかは、自分ではコントロールできない。運よくそれ一回で収束することもある。さらなる嘘で補わねばならないときもある。嘘は口からこぼれ出た瞬間に、自分では手に負えない生き物になってしまう。

 黙っているだけでも、嘘になることもある。過去に自分が経験したことを相手に伝えなかっただけで、それも嘘と言われる。昔、あの人とつきあっていました。昔、結婚していました。昔、あの出来事に関わっていました。無言であることが罪になることもある。

 嘘はつかなければ良いならとにかくつかない方がよい。そしてついてしまった嘘は、できるだけ早く自分から告白して事を収めたほうがよい。今回のスキャンダルは、あらためて嘘をつくことで人が追いつめられるかを教えてくれた。過去の苦い経験の振り返りと共に。

 話題になっているゴーストライター問題の人は、そもそも嘘をつかなくても、作品のプロデュースなどで才能を発揮できたのではないだろうか。虚飾をとりのぞいた自分で勝負しても、じゅうぶんに人生には勝利できたかもしれないのに、可哀想だ。