ウェブに住む人たちは、死ぬ間際も画面に向かってつぶやき続けるのだろうか

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2週間近く前にちらちゃんからもらった花がまだ咲いている。朽ちる直前の花の持つ妖気を感じる。

24時間、自分の意志のままに行動していると、どうしてもブログを書く意欲が減退する。

けれど、このブログでないと私の近況や想いを届けられない相手がいる。その対象のひとつは、ウェブのみでつながっている人。勿論読んでもらえているかは定かではないが。

彼らはあなたの人生にとって必要のないものですよ、と何処かで誰かがつぶやく。いいえ、そうではないのです。彼らがウェブに存在するかぎり、彼らとつながり続けるべきだし、断ち切ることはできないのです、と私は答える。本当にそうですか?と声がする。分からない。でもまだつながっていたい。

昔は、直接のやりとりや人を介した伝聞だけが誰かとつながる手段だった。そのほうがどれだけ楽だったことだろう。

でも今はちがう。ウェブという曇りガラスの向こうにいる相手の存在を無いものにはできない。電波にさえ乗ればテキストや画像により形成された相手の「存在」にふれてしまえるから。あるいはこちら側から自分の動向を発信することで「想い」を届けられる可能性がある。そのかすかな希望と可能性は、時に酷な状況を生み出す。たとえばもう忘れたいと思っても画面から存在が漏れ出るとき。たとえば相手が(もしくは自分が)ウェブから不在になったとき。

ウェブ時代の人たちは、手応えのない人間関係のなかで生きている。コンテンツ化された人の動向をうかがい、自分の動向をコンテンツとして提供する。直接性のないコミュニケーション。流れていく時間と情報の波にただよう、対象性と主体性の薄いつぶやき。満たされているようで常に満たされず、さらにウェブにとりすがる。

ウェブはリアルを補完するもの。そう割り切ってしまえば良いのだろうが、そうではないことをもう知ってしまった人たちがいる(私を含めて)。彼らの人生は、これからどんな方向に向かっていくのか。年老いて、死がせまったときも、その間際まで画面に向かってつぶやき続けるのだろうか。