濁り

この人に近付くと危険だな、というタイプの人がいる。
その瞬間は分からないけれど、後になってそうだったんだ、と気付く。
昨夜はそんな女性に出逢った。
会話のなかで響き合う部分があったので、色々と話した。
けれど、徐々にすくい出してはいけない水底の沈殿物にまで手を突っ込んで(あるいは突っ込まれて)しまったようだ。心の透明度が下がり、どうにも収集がつかなくなった。
嗚呼、今の不安定な状態は彼女に共鳴したからだ、と理解した。
人は人と響き合う。だから共に過ごす人を選り分ける。
けれど偶然の出逢いのなかでは避けられない事態が起こる。
とりわけ私は人の影響を受けやすい。
久しぶりに味わったこの感覚。この濁りが収束するまでの時間をどう過ごしたら良いか、困惑している。
否、ただやるべきことをこなしていくだけだ。
かろうじて、昨日手に入れた本の一節を繰り返し読んで、心を鎮めようとしている。

子輿(しよ)は、心は静謐でうろたえもせず、よろめきながら井戸に向かい、水面に自分を映すと、また言った。「ああ、あの造物者が、わたしをこのように曲げてしまった」。
子祀(しし)が言う。「君はそれが憎いか」。
子輿が答える。「いや、どうして憎いことがあろうか。だんだんとわたしの左腕を化して鶏にするならば、わたしは時を告げることにしよう。だんだんとわたしの右腕を化して弾にするならば、フクロウでも撃って炙りものにしよう。だんだんとわたしの尻を化して車輪にし、心を馬とするならば、それに乗っていこう。馬車に乗らなくても済むようになる。そもそも得たのも時であったし、失うのも順である。時に安んじ、順におれば、哀楽の感情も入ってこない。これが古くから言われていた縣解である。束縛が解けないのは、物と結びついているからである。そもそも物が天に勝てないこと久しいのであって、わたしがこれを憎むはずもない」。(『荘子』大宗師篇)


『荘子』鶏となって時を告げよ--中島隆博(岩波書店)