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花は野にあるやうに

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 みっちゃんが習っている山村御流のいけばな展を見に、ゆきちゃんと四条河原町の高島屋まで繰り出した。行く前に寄ったはてなオフィスから向かう途中で雨が降り出した。寺町から新京極のアーケードを歩いたおかげでほとんど濡れずにすんだ。

 デパートに入るのは久しぶりだったので、にぎやかな7階の催事会場をひとりぼおっと歩いていたら「れいこちゃん!れいこちゃん!」と目の前でゆきちゃんが手をふって笑っていた。間抜けな顔を見られて恥ずかしかったけど、やっと現実に戻った気がして「ああゆきちゃん!こんにちは!」と挨拶をして会場に向かった。

 会場には、たくさんの花たちがあった。そして、たくさんの女性たちが花を眺めていた。アイボリーに統一された長大な棚には等間隔でさまざまな生け花が展示されていた。異なる人の手による異なる花々のオンパレードなのに、そこに嫌らしさやケバケバしさがないのは、山村御流の生け花だからこそ、だ。

 山村御流は奈良・円照寺の住職を家元とした華道の流派で、自然の花を素朴なまま「花は野にあるように」生けるスタイルが特徴だ。それは利休の茶の湯の精神とも完全に通ずるもので、自然にあるものが最も美しいという主張のもと、あざとい付け加えを最も嫌い、省略して省略して、そこに残ったものを本来の美しさとする表現手法なのだ。

茶は服のよきやうに点て、

炭は湯の沸くやうに置き、

花は野にあるやうに

さて夏は涼しく冬暖かに、

刻限は早めに、

降らずとも雨の用意、

相客に心せよ。

 これは利休の口伝秘事を書き残した『南方録』の一節。花は野にあるやうに、それが難しいけれど、やはり美しい。

 と、小難しいことはここまでにしておいて、いや〜、本当に、とてもとても美しい世界だった。

 お盆に妙高高原をみっちゃん&ゆきちゃんファミリーと旅したとき、燕温泉の露天風呂に入っていつまでも周囲の風景を眺めていた。そのとき、目の前の石垣の隙間からシュッと生えている花が美しくて、思わず、

「ゆきちゃん、あれこそが山村御流よね!」

と指差したら、

「そうだわれいこちゃん、あれこそがみっちゃんの山村御流よ!」

とゆきちゃんも感激して、その後もずっと乳白色のお湯につかって石垣の花を眺め続けてホヤホヤになった。

 省略の美、って本当に素敵。だけど難しい。人間って、特に女って、絶対に放出するよりは取り込み蓄える性質が強いんだと思うから。生活上、アウトプットよりインプットのほうが多い。だから省略っていうのは、厳しい精神修行を経てやっとこさ出来るようになる奥義なのでしょう。

 今、身の回りにあふれる美しくないモノを眺めながら、もっともっと省略したいと思う。

 研ぎ澄ませて、絞って、削って、そこに残ったものが私なのだとしたら、もっともっと省略させたい。そこに残るものたちを慈しみ、愛したい。

 さて、そこに残るものって、何?