森を歩く

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 森を歩くのが好きだ。森を歩くことの何が好きかというと、一本として同じ形のない木々を見ながら歩くのがたまらなく好きだ。

 木々だけでなく、石や草など自然のもの全ては唯一無二の形をしている。それらを眺めて歩くのが好きだ。

 それから匂い。歩くと色んな匂いが立ちのぼっては消え、新しい匂いが鼻腔に入ってくる。湿った土の匂い、青臭い草の匂い、甘い花の匂い、獣の糞の匂い。肺のなかに色んな匂いが侵入し、私の一部になる。

 それから音。ザクザクと落ち葉を踏む音、トントンと石段をのぼる音、風が揺らす葉音、鳥のさえずり。全ての音色が違い、リズムが違う。

 それから触り心地。たまに立ち止まって木の幹にふれる。歩きながら草や花を揺らす。道端に落ちた枝を拾ってぶらぶらさせる。子どもの頃から知っているそれらの触り心地を確認しながら歩く。

 人工物にも出逢う。古い石碑や看板やベンチなど。私の歩く森に配されたこれらの造形物は、森の管理者によって適切な場所に適切な表現で収まっている。森が細やかに手入れされている。

 風景を見ながら、匂いを嗅ぎながら、音を聞き分けながら、手触りを感じながら歩いていくうちに、私は自然の一部になる。完全な自然ではなく、自然への敬意を払う人たちの手によって整備された自然のなかで、自然の仲間にしてもらう。

 そこには安心感があり、癒しがある。ひとりなのにひとりではない。木や草や花や鳥などあらゆる生きとし生けるものたちの構成に混じっており、自然が存在する長い歳月のなかのあるポイントに私が存在しているという安心感がある。その事実と、体が感じるすべての感覚に癒される。

 

 生きることはしんどいことだ。決して楽しいだけではない。どんなに心穏やかに努めても、頑張っていても、悩みは色んなとこから生じてくる。

 無理にやり過ごすこともある。でもどうしても先が見えないときは、森に持っていく。

 自然の一部になる作業のなかで、その繰り返しのなかで、いつか何かしらの答えが得られる。森から授かるのか、自分から湧き出るのか。森に行けば解決への道がひらける。

 だから私は森に行く。未熟な自然の構成物として森に入れてもらい、生きとし生けるものの一部である実感を得て、また森を出る。

 そこに神を感じることもある。その先に宇宙を感じることもある。もう少し歩き続けたなら、生も死もあらゆる感情も受容できるのかもしれない。そんな大げさなものではないのかもしれない。まだ分からない。

 森を歩くのが好きだ。だから明日も森を歩く。