「数学する身体 森田真生」

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 発売中の『新潮』9月号に掲載された「数学する身体 森田真生」を読んだ。

 森田さんは、独立研究者という聞き慣れない肩書きを持っている。昨年、彼が京都に移り住んでから親しくおつきあいするようになったけれど、その風貌の爽やかさと屈託のない笑顔に、これまで持っていた数学者のイメージがくつがえされてしまった。

 独立研究者ってなんだろう。どうやら大学の研究室や研究機関には属さずに、ひとりで研究し、講演や執筆で生計を立てているらしい。そんなこと、可能なんだろうか。彼が講師を務める数学の講座はいつも多くの人で賑わっているらしい。しかも理系ではない女性などもリピーターにいるらしい。

 一度、のぞいてみようか。彼が多くの人を集める理由を知りたい。そんな動機で昨年6月、京都で開催された「大人のための数学講座」に参加してみた。私は高校一年の2次関数か確率あたりで完全に数学を投げてしまった人間なので、自分がその場にふさわしくないことはよくわかっていた。でも、「ふつうの」社会人や女性が胸をときめかせて参加するという講座に興味があった。

 結果、その講座は頭に描いていた数学講座ではまったくなかった。数式はもちろん出てきた。解けない計算式もホワイトボードにたくさん記された。しかし、それはどちらかというと付随品のように感じた。多くの人が惹きつけられる理由は、数学という誰もが経験しながらも、通過し、忘れ、一部の人の専門学問としか認識されないまま放棄されている、しかし実は「美しく深い世界」の一端を私たちに教えてくれる特別な時間だからだと、納得した。

 講座の途中、彼は時折ふっと沈黙した。緩い笑みを浮かべながら、空(くう)のどこかを見て、その場からいなくなった。自分だけが存在できる時空の森に戻って休憩する生き物のようだった。聴衆は、そのわずかな数秒、森田さんをただ見つめ、彼が彼の数学の森から戻ってくるのを待った。そしてまた少しオクターブの高い声で、明るいトークは再開された。踊りが好きだというしなやかな肢体と澄んだ瞳と笑顔と共に。

 数学という未知なる森に住む鹿の姿をした妖精のようだ。たまに出てきては、私たちをその森へと誘いかけ、鬱蒼と茂る草や枝葉を巧みにかき分けて、森の奥深くまで案内してくれる。たくさんの樹々を抜けたその先、眼前には、清らかな水をたたえたきらめく泉があった。「ほら、こんな風に」と、彼は泉の中へと進み、私たちに豊かな数学の森の魅力を、泉の美しさを、神秘を教えてくれる。

 そんな風に、彼の存在する数学の世界を森だとイメージしたが、彼自身は、この「数学する身体」という論考のなかで、「建築」と表現している。 

数学者は、もはや道具を駆使しながら物理世界に働きかけるものではなく、”数学”という建築物の中に住まい、その中を行為するものになった。その行為によって、建築物としての”数学”は絶えずつくりかえられる。一方で、この建築の方もまた、絶えずそこに住まうものに変容を迫る。”数学”という建築は、そこに住まう者の中に、風景を立ち上げる。

 どうやら私が漠然と感じていた「森」としての数学は、もっと人工的で機能的でダイナミックな世界のようだ。おそらく私があまりにも数学に対する知識がなく、未知の領域として畏れているから「森」をイメージしたのかもしれない。そして鹿の姿をした数学の妖精であることの森田さんは、巨大な建築物のなかで数と戯れ、踊り、表現するダンサーなのだ。 

 論考では、人が発見した”数”が、身体の能力を補完し拡張する”数字”へと進化した道のり、定理を生み思考する数学者たちの「環境」として発展した現代数学、そして人間的な行為として「数学する身体」と共に数学と寄り添う数学者たちの姿と、彼らが見る風景とはどのようなものかが、澄んだ清々しい文章で、示唆にみちた言葉たちで、丁寧に綴られている。

 「独立研究者」森田さんの原風景と、彼がいま生きている深淵で広大な数学の世界にいざなってくれる、印象深い論考だった。

 今回の論考は、森田さんの”数学論であり自叙伝”としての大事な序章のように思える。だから独立研究者としていよいよ輝きを放ち始めた彼と彼の住む数学という世界に興味を持った人には、ぜひ一読することをお奨めしたい。私のような高校生で教科としての数学から落ちこぼれた者ですら、こうして感銘を受けたのだから、数学をもっと知る人たちが読めば、もっともっとその面白さと文章の真髄を感じ取れるだろう。

 

新潮 2013年 09月号 [雑誌]

新潮 2013年 09月号 [雑誌]