疑似家族社会

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 昨夜は友人五人が家にやってきて夕食を共にした。そこにいない仲間の一人が腎臓を患い長期入院を強いられたので、彼女をいかにサポートするか作戦を練った。友人は二人の子供を夫の実家に預けて闘病している。お腹には臨月近い子供を宿している。夫は自営業で多忙過ぎる。彼女の身の回りの世話が出来るのは、友人しかいない。日々のサポートの情報をどうシェアするか。ブログを共有するか、Facebookのグループを使うか、あれこれ迷ったが、結局、無難にメーリングリストを作ってやりとりすることにした。

 去年、大学で社会学演習を聴講したとき、提出したテーマは「擬似家族社会」だった。血縁に頼らず、他人同士があたかも家族のように繋がり、支え合う社会。私たちの救われる道はそこにあるのではないかと考え、提言した。

 女子学生の反応はクールだった。単身で留学してきたスウェーデン人の男の子からは共感を得た。教授はこう言った。

 「そもそも家族の概念が確定したのは近代からと歴史は浅い。近代家族は情緒的相互依存、すなわち愛やつながりのような精神コミュニケーションへの欲求から成り立っている。しかし今、あえて『家族』という福沢諭吉が考え出した単語を用いなくても良いのではないか。アンソニー・デギンズは『親密性の変容』と言った。現代の我々と人の繋がりについて改めて考えるべき事柄だ…云々」。さすがだ。

 教授のいうように、家族という単位がまだ成立して間もないのであれば、そこに出来た見えない境界を越えて、他人同士でもより踏み込んだ形で支え合うことは可能ではないだろうか。親密性の変容。核家庭が増えて、孤立化が進む都市に住む私たち(もちろんそうではない地域もある)。誰にでも彼にでも、は無理にしても、もう少し身近な誰かに手を差し伸べられる力と空気があればよい。

 ただ気の合う友人と集まっていただけのつもりが、図らずもコミュニティのあり方について考える機会になった。

 私には彼女らと集まる「場」を提供することと、メーリングリストを作成することぐらいしかできないけれど、このささやかな繋がりから生まれた擬似家族を末長く発展させてみたい。