人は物語り私は蕎麦をすする

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 朝、親しい知人が和泉からやってきたので進々堂でお茶をする。その方は故郷の母同士が仲良しで、昔から知った間柄だったけど、彼女の方が四学年上だったので、当時は付き合いがなかった。しかしここにきて、私のブログを読んでは折にふれて感想をくれ、その度にオンラインで交流を重ね、いつしかリアルでも会うようになった。

 
 ブログを読んでコンタクトを取ってくれる人は少なくない。多くは女性で、女性ならではの共感が彼女らと私の距離を縮める。会うと、彼女らは大抵、間違いのない把握力で私の心持ちや置かれた状況を理解してくれている。それはFacebookやTwitterにはない、深い通じ合い方だと思う。ブログとは不思議で有難いものだ。
 
 大きな古い木のテーブルを挟んで、あれやこれやと話を弾ませた。文楽に和泉や堺の地が頻繁に登場することを話したら、とても喜んでいた。郷土愛。割り勘にすべきところを奢ってもらった。オレンジジュース470円。こちらが京都で迎えているのに、投げ銭をしてもらった気分だ。ご馳走様です。
 
 その後、雨の止み間をぬって大学のセンターへ出勤。午前に一件、夕方に一件、違う先生からイレギュラーな頼まれごとをされた。一件は超大型案件でまれにみるオファーだったものの、丁重にお断りした。もう一件は対応可能だったので協力することにした。最近、センターで色んな人から色んな事を持ちかけられる。務め始めて一年と二ヶ月。歳月の積み重ねだ。信頼をかちとったのだ。やっとホーム感が得られてきた。ヤンキースの松井だって、ダルビッシュだって、最初は余所者だったんだ。とはいえ学生でもなく研究者でもないので、今も何処か余所者感はあるけれど、私にはそれぐらいの方が居心地が良い。立ち位置よりも仕事だ、御奉仕だ。
 
 頼まれごとの他にも、今日は色々な人から話を聞かされた。特にいちばん近しいボスからは、非常に泥臭い人間模様的な話も聞いて、うわあー、そんなの聞いて私、大丈夫かしらと戸惑いつつも、まあいいか、という感じだった。人は誰かに話したいものなのだろう。中庭のクスノキや桜よりは私のほうが聞き役として適任らしい。しばしば隣の事務室からも語り手がやってくるが、上手い具合にバッティングせずに傾聴タイムをご提供できた。
 
 夕方の用事がキャンセルになったので、タイミング良く大学前の停留所にやってきた京都バスに乗りこんで、四条烏丸方面へ。そういや今ごろはてなのメンバーはブライトンホテルで納会騒ぎ。年に一度のパーティで盛り上がっているのね、と思うと不思議な気持ちになった。
 
 四条烏丸で降りて、ラクエというファッションビルに入って綺麗な服や家具を眺めてブラブラする。F.O.B COOPは北山と青山時代、聖域だったから、つい足を踏み入れてしまう。フランス製の白いテーブルウェアもシンプルな厚手のガラスウェアも健在で、思わずあの頃はお世話になりました、と拝みたくなった。そんなF.O.Bの青山店も閉店となるらしい。あゝ、時代だ、時代だ。
 
 静かに歩きたくなって、烏丸から入った通りに進む。ふと思いついて、以前教えてもらった蕎麦屋で食べて帰ることにする。京都育ちの店主なのになぜか手打ち蕎麦屋を営んでいるという店に入る。おばちゃんに勧められて、新潟の巻機(まきおり)というお酒をもらう。爽やかな辛口。蕎麦は蕎麦粉が九割の細めしっかりで、実家の父の打つ蕎麦とかなり似ている。予め教えられていた蕎麦粥なるものがヒットだった。濃いめの出汁で蕎麦の実を鶏と共にトロトロアツアツに煮込んだものに生姜と葱を混ぜていただく。美味しい美味しいと言っていたら、おばさんがテーブル横に腰かけて色んな話をし始めた。平成六年に創業した当時は冷たい蕎麦の良さを知る人が余りに少なく、「寒い季節になんでざるそばやねん」「うどんはないんか」とよく言われたらしい。中には、「そば屋」だからと焼きそばを注文する客もいたのだとか。今でこそ手打ち蕎麦屋が市民権を得た京都だけど、そんな厳しい時期もあったのですね。でも京都の人なのにここまで関東っぽい蕎麦屋を開いたオーナー、相当変わり者とみた。お喋りは尽きぬが、早すぎるシンデレラタイムが迫ってきたので、温かく見送られて夜の新町通をあとにする。
 
 少しだけ酔った頭で一日を振り返りながら烏丸通を北上する。そういえば、蕎麦屋でもまたとっぷりと人の話を聞いたなあ。今日はそんな一日なんだ。美味しい蕎麦も食べられたし、色んな物語に触れられたし、良い一日でした。来期もがんばってください。あ、これは、はてなのお話。