そろそろ活動再開...

こんにちは。久しぶりの近況報告です。

3月に5年間勤めていた京都大学こころの未来研究センターの広報の仕事を終えて、フリーとして活動を始めました。が、その後、縁あってアメリカで事業展開中の Voice4u の日本新規事業立ち上げメンバーに加えていただきました。

それについては、またあらためてご報告しますが、近況や最近の思いについては下記の女性向けウェブメディアに記事を寄稿しています。

へへ〜、と思いながら読んでいただければ幸いです(^^)。

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ブログデザインもちょこっと変更しました。これからもよろしくお願いします。

ナビスコリッツクラッカーは私の青春(の一部)だった

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リッツクラッカー。真っ赤な箱に入った丸くて点々の穴のついたクラッカー。少ししょっぱくて油っこくて、噛むとザクザクという音がして、噛み続けると口のなかで徐々にやわらかくなって、食べ終わる頃にはクラッカーの内側のわずかな甘みと小麦粉のやさしい味わいに包まれて幸せな気持ちになる私のお気に入り。

中学生だったか高校生だったかの頃に、お腹がすいたときに家にリッツしかなくて、「ええー、これだけ?」と母に文句を言いつつ、冷蔵庫のバターをぬってイチゴジャムをのせて食べたら美味しくてひと箱ぜんぶ食べ切った。いったい何カロリーだったんだろうか。バターケースとイチゴジャムの瓶を目の前に置き、一枚食べるごとにぬって、ぬって、口に放り込んで、またぬって、ぬって、食べての繰り返し。あの「ひと手間かけて」いただく感じがよかったのかもしれない。以来、リッツは私の恋人になった。ポテチをひたすら口に運ぶよりも高尚な感じがして、リッツにバターにジャムだと、いくら食べても許される気がした。姉の高校時代の友人が有名な女優さんになって、リッツクラッカーのCMに出ていたのも好きになった理由だったような気がする。

大人になってからは、さすがにリッツでバターでジャムでバカ食いというのはなくなったが、子連れで友人とピクニックをするときなどに持参し、クリームチーズとマーマレードをぬってふるまったりすると、「きゃあお洒落〜」「美味しい〜」と常に好評だった。やはりあの「ひと手間感」がアウトドアの雰囲気も手伝って、ピクニック仲間たちを魅了したようだった。そんなわけでいつもピクニックの日には行きがけにスーパーでリッツの赤い箱を仕入れるのが常になっていた。

そんな私にとって心の友のような存在だったリッツクラッカーが、このところ愛用しているスーパーでは売られなくなった。かなり以前から日本での製造元だった山崎がライセンス切れでアメリカ本国のメーカーに引き取られたとは聞いていたが、リッツがスーパーから消えてしまうとは思っていなかった。

ゴールデンウィークの最初の日曜日は久々の友人たちとのピクニックの日だった。母から自家製のマーマレードが届いたので、「そうだ、いつものリッツでいこう」と張り切ってスーパーの菓子売場に突進したものの、なじみの赤い箱がない。いくら探しても見当たらない。店員に聞こうにもレジが長蛇の列で声をかけられない。困っていたら、リッツが置かれていたスペースに、ルヴァンという紺色の箱に入ったクラッカーが並んでいるのを見つけた。まだそれらの関係性を掴めぬまま、しかしなんとなくリッツの代替品としてはこれでいいか、と思って、紺色の箱を手にレジに向かった。

ちなみにこの日はクリームチーズではなくマスカルポーネにした。ふたつきのプラスチックケースに入っているマスカルポーネのほうが、やわらかくてピクニックの現場ではクラッカーにぬりやすいからだ。ここにたっぷりのマーマレードをのせて「はいどうぞ」と友人たちに提供すると「きゃあ〜美味しい」と今回も好評だった。そしてクラッカーそのものの味わいもリッツそのものだった。丸くなくて角を落とした四角(八角形)というものだったが。

帰宅してルヴァンとリッツの関係を調べると、どうやらライセンスを失った山崎が気合を入れて出した代わりの商品がルヴァンだったとのこと。ああ、そういうことだったのね、と腑に落ちたけれど、リッツという長年、心に寄り添っていた友のような存在を急に失った私としては、若干の喪失感に包まれ、しばしぼおっとしてしまった。

ほんの数ヶ月に一度、手に取るだけの関係だったけれど、あの赤い箱、丸い形、点々の穴、ザクザクの食感、口中でもったりとやわらかくなるにつれて浸み出てくる小麦と砂糖の甘さ。私にとっては、中学生の頃に大好きだった理科の松原先生(男子バレーボール部顧問)と同じように、たまに思い出してはやさしくあたたかい気持ちになれる大切な存在だったのだ。それは、いくら同じ製法、同じ美味しさを継承したとしても、紺色の箱の八角形のルヴァンでは満足できないのだ。松原先生は永遠に松原先生であってほしかった。

何をいまさらリッツのことでショックを受けてるねん、もう二年前の話やろが、とネットウォッチャーの人たちには言われそうだが、書かずにはおれなかったので、ゴールデンウィークの真ん中の暇な夜にリッツへのオマージュ?をしたためたのでした。

とはいえ、ルヴァンがあってよかったな。八角形のほうがお洒落な気もするしな。

1日の最後はひとりで過ごすのがいい

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元来、人に気をつかいすぎる性分で、ひとりでいるのが好き。

人といるのは楽しいし、人とつながっていないと寂しいのだけれど、実際のところはひとりでいたい。

仕事に関しては、ひとりでやるよりも信頼のおける仲間と進めるほうがはかどるし、がんばれる。難しい問題も、面倒な課題も、人に相談しながら、確認しながら、ほめてもらったりアドバイスしてもらいながらやるとうまくいく。

だけど基本はひとりがいい。

日常のどの部分でひとりだったら良いのかな、と思うと、1日の終わりということになる。

好きなものを食べて、好きなお酒を飲んで、スマホを眺めて、知人たちの動向をSNSTwitterでチェックして、友人からのLINEメッセージに返事して、つきあっている人とチャットで喋って...。

ほろ酔いで過ごして、気づいたらテーブルに突っ伏して眠ってたり、ギラギラになってブログを書いてさらに覚醒したり...。笑

誰かとつながっているけど、リアルではひとり。それが心地よい。ウェブのおかげで、こうして気楽なひとりの夜を楽しめている。

ずーっと誰かと一緒にいないといけない結婚生活は、私には向いていなかったようだ。独身と既婚の中間ぐらいが自分に合っている。プロジェクトは複数で、その他はひとりで。

理想を実現するには努力と工夫がいる。毎日、理想どおりとはいかない。でも、自分の「こうありたい」をはっきりさせておくことは幸せな暮らしのためには必要だ。そのあたり、最近は良い塩梅で実現できている。

今日はひとりで過ごしている。

ひとりで過ごす夜に、幸せを感じている。

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ところで、いま、なにげなく読んだ所ジョージさんの記事がすごくよかったので、リンクを貼っておきます。いいなぁ。

春やなあ

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ソメイヨシノが豪快に咲いて散って、私の好きなしだれ桜や八重桜も場所によってはそろそろ終わり。寒かったり暖かかったり、春はあいかわらずせわしない。

春休みは地獄だよねと、お母さん同士で嘆き合ってたんだけど、今年はそれほどでもなかった。

息子が小4になったこともあるけど、自分の子どもに対する気持ちが変化したことが大きいみたい。

育児については、ずーっと、ずーっと悩み苦しみ続けていたんだけど、最も厳しい局面を乗り越えた気がする。

もがいて、わーわーと抵抗して、どうしようもなくなって、暗い顔して「育児の裏街道」を歩いてきた。でもなぜだろう。春休みの途中でスーッとらくになった。

じめじめと暗かった部分に光が差し込んだ。

具体的には、子どもの行動を信じられるようになった。子どもに任せられるようになった。一緒に楽しめるようになった。

すると子どもにも変化が出てきた。なんとなく幸せそうにしている。

悩みのトンネルを抜けたことに気付くのは、かなり後になってからのようだ。

で、いったいどうしてラクになったのだ?と聞かれたら、それは難しいんだけど、苦しむことから逃げずにいたら、自然とラクになれた、というのが実感。

今まで、子どものいる人生を受容しきれてなかったんだなあ。

冬から春にかけて読んだ次の本たちは、自分の思考をすっきりと整理し、前向きにとらえる力をくれた。

Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫)

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

あとは6年勤めた大学勤務をやめたこともよかったようだ。

どこにも属さない自分になったおかげで、鈍っていた心身が目を覚ましたみたい。

人とうまくやっていこう、子どもとうまくやっていこう、自分の持てる力で社会の役に立っていこう、それが生き抜く道なのだ。そんな感じ。

春は心細く、春は落ち着かない。

だけど、生きていることを実感できる季節だ。

ぼちぼち楽しんでいこう。

私の就職失敗記

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桜が咲き始め、家具屋やホームセンターが新生活を始める人で賑わうこの時期、思い出す出来事がある。

あれは短大最後の春、私は博多にある電力会社のビルの一室にいた。

「すみません。親が病気になったので就職をやめさせてください」

入社式を3日前に控えた3月の終わりだった。私の前に座っていた人事部のおじさん2人の顔が引きつっていた。おそらく社内での配属も決まり、研修の準備も完璧に終わっていたことだろう。なのに入社式の3日前になっていきなり「やっぱりやめる」と言い出した輩がいるのだ。

バブルの後半で、まだ就職は売り手市場だった。けれどさすがに天下の電力会社への入社を(入社3日前に)断る人間が出てくるとは想像していなかったようだ。

担当者は、

「まあ...親御さんがご病気なら仕方ないですよね...」

どうしようもない、やれやれ、という顔で私を眺め、やはり引きつった顔で見送ってくれた。親の病気とかいう見えすいた嘘は、先方も見破っていたに違いない。

大阪生まれの大阪育ち、短大も大阪だった私が九州の会社から内定をもらった理由は、当時つきあっていた大学4年生の彼氏が長崎の出身で、卒業後に実家に戻って教職につくことがきまっていたからだ。

親との関係が悪く、少しでも早く家を出たかった私は、彼の帰郷についていく形で九州に職を求めた。すると運良く、大会社であるところの電力会社から内定をもらった。両親は手放しで喜んだ。福岡市内や佐賀の有田に親戚がいることもあり、誰もが知っている会社への就職なら文句はない、とのことだった。

今から思えば、就職を九州に決めた理由は、彼氏の出身地だからではなかった。一刻も早く家を出る理由がほしかったのだ。

入社が近づいた3月、交際は終わった。別れを告げたのは私だった。とつぜん九州に行くのが怖くなったのだ。このまま彼との関係を続け、プロポーズされ、会社をやめてお嫁さんになり、家庭に収まる。そんな焼き魚定食のような想定可能な人生を歩むなんてお先真っ暗ではないか、と絶望に襲われた。

私に別れを告げられた彼は泣いた。しかしやめると決めた私は、淡々と会社に連絡を取り、新幹線のチケットを取り、お詫び行脚に出る準備を整えた。親からは当然のように激怒され、父親は私と目を合わさなくなった。2週間後、深夜に荷物をまとめ、幼馴染のTくんに頼んでクルマを出してもらい、家を出た。とりあえず短大時代の友人宅にころがりこんだ。

これから先、どうしよう。友人の布団の匂いをかぎながら、心細くなった。もう後には引けない。不安でいっぱいだったが、それでもやっぱり嬉しかった。私はやっと自由になったのだ。

恋人の家に住みついて自分のワンルームは使っていないから、と部屋を融通してくれた友人のおかげで仮の住まいに落ち着いた私は、中之島の一流ホテルでパーティコンパニオンまがいの仕事をして生活費を稼いだ。まだ時代はバブルだったので、収入は多かった。毎日のように宴会場で繰り広げられるきらびやかなパーティのVIP担当に任命され、真っ白のスーツに身を包んで「社長」「先生」と呼ばれる人たちをもてなした。

こうして文章に書くと「転落人生のはじまり」のようなエピソードだ。

その後、両親と和解し、バブルが崩壊し、小さな編集会社に見習いとして入った私は、天満橋の雑居ビルでひたすら目の前の仕事に打ち込んだ。ライターに発注するよりお前が書けと命じられて毎日毎日、大手自転車部品メーカーの広報誌の記事を書き続けた。イベントの企画をする流れで、司会者に欠員ができたために抜擢されて司会もするようになった。台本が書けて喋れる司会者は重宝された。気がついたら、スポーツイベントの司会者兼ライターという肩書きがついた。そこで出会った学生の自転車乗りと結婚した(その間にも色んな出来事があったが、ここでは割愛する)。

人生、何がどう転ぶか分からない。

恥ずかしい就職失敗の出来事も、今では「若かったなあ」と振り返ることができる。しかしどれほどの人に迷惑をかけただろうか。

この春からフリーで仕事を始めた。

今は、過去に出会った人たちに心の中で頭を下げながら、罪滅ぼしの気持ちで仕事に向かっている。発注してくれた人を失望させないことだけを心に誓って。